河上亮一『普通の子どもたちの崩壊:現役公立中学教師一年間の記録』(文春文庫 2001)をぱらぱらと読む。
1999年に刊行された本の文庫化である。行事の準備や委員会決め、修学旅行の約束など、生徒の動きや学級の雰囲気作りに悩み、成長していく生徒の姿の記録となっている。
埼玉県教育委員会が、県内の女子中学生が老人を死亡させた事件に関連して、「心の教育=道徳教育」をしっかりやるようにという通達を出したとの報道に接し、著者は違和感を感じ、次のように述べている。
教師になる人間は、特別偉大な人間ではない。教師に大きな人間的影響力を求めるのは無理というものだ。教師の言葉が生徒にとどくための決定的な条件は、社会や家庭が普段から子どもに一様な価値観で対している場合だけである。しかも今そのような機能が働かなくなってしまっているのだから、単なる「心の教育」は生徒にバカにされるのが落ちである。家庭も社会も、お金第一、自分第一、自分の欲望を満たすことを優先すると考えている現状では、特にそうである。
実は、日本の教師は、これまでも「心の教育」はずっと行なってきている。これはヨーロッパやアメリカの教会の役割も担ってきたということである。これまでなんとかやってこられたのは、先にも述べたように、社会と家庭の支持があったからだ。
しかしこの10年、そういったシステムが壊れてしまったのだ。ところが、そのことに気づかず、依然として教師の方は、昔と同じように「心の教育」にこだわっているのである。しかし「心の教育」は子どもの内面に介入することになるから、最近の固くて狭い自我の生徒を相手にしていれば、トラブルが多発するのは自然の成り行きだ。そこに「心の教育」をもっとやれ、ということになるとトラブルを一層激化させることになる。まず、現状の生徒をよく見たうえで、基礎的な教育に限定することが現実的な方法なのではないか。それにしたって、文化や知識を教えることは、生徒にとって基本的に強制しなくてはならず、暴力的な要素をもつのだから、生徒が我慢しなくなれば困難になるのだ。
思い込みでやるのではなく、教師としての仕事は何なのかを明確にして、クールにやることである。説得しようとしたり、君のためだ、などと迫ることは何よりもトラブルのもとである。