昨日の夜フジテレビでKー1を観た。
試合自体はまあ面白かった。数年前に無敵を誇ったモーリススミスをピーターアーツは破った訳だが、そのピーターアーツもここへ来てかなり研究され尽くした感がある。ピーターアーツは左のジャブを出したら右のロー、右のストレートを出したら左のミドルといったコンビネーションの巧みさと圧力に持ち味があったのだが、そのリズムが相手に読まれている。ちょうど3年くらい前に極真で前蹴りで決まった試合があったが、それに状況は似ている。
しかしどうもKー1のテレビ演出には嫌悪感を感じる。昨日もイギリス出身のキックボクサーを「大英帝国の不沈艦」と称していた。それに向かうのが日本人の「武蔵」であるのだから、何をか言わんである。Kー1の主催者である正道会館のバックには暴力団が絡んでいるという記事が月刊誌「噂の真相」に暴露されていたがその影響もあるのだろうか。空手(極真)対キックボクシングという演出はそのまま枢軸国対連合国を彷彿させ る。
月別アーカイブ: 2000年8月
『影の地帯』
松本清張『影の地帯』を読んだ。
やはり携帯電話普及以前ゆえに成立しえた物語世界観だという気がしてならない。携帯が普及してしまった現在では、山で遭難したり、病院に隔離されたりして外部や、家族と連絡が取れなくなるという状況がリアリティーを持ちえない。大体ある人物と連絡を取るのに、その家に連絡して、家族に伝言を託すという一場面一つとっても不自然な感じが残る。それほどにコミュニケーションのスタイルが変わっていく中で、小説の世界観が現実に追いつき、追い越していくのは難しいことになるのだろう。
『眼の壁』
松本清張『眼の壁』(光文社)を読んだ。
『点と線』と並ぶ松本氏のデビュー作である。これらが書かれたのは1960年である。高度経済成長の中での会社員の心労が事件の背景に描かれている。
私の大学時代卒論ゼミで江戸川乱歩を取り上げた学生がいた。その学生の卒論の草稿を読んでゼミの教員が「江戸川乱歩は『昭和』の合理化優先主義の影に潜む構造をつかみとっている」と評していたが、松本清張の作品にも昭和の暗部が底辺に流れている。これが「平成」になると途端に難しくなる。村上春樹の作品に代表されるように「平成」の暗部はバーチャルリアリティ的なものになってしまう。「都市と農村」「男と女」「金持ちと貧乏人」といった近代文学までの旧来の対立項が崩れてしまっているのだから、「現実と虚構」という世界観に根差した小説はもう少し続いていくのだろう。
『何をいまさら』
ナンシー関『何をいまさら』(世界文化社 1993)を今読んでいる。
テレビという媒体は最近「日常」「普通」を追う傾向が見られるが、誰も「それ、自分の日常だ」というリアル感を感じていないという指摘は、良く耳にすることだが、改めてなるほどと思った。私も高校教員をやっているが、高校・大学の友人に話すと、「最近の高校生ってどう?」という質問を必ずと言って良いほど訊かれる。その質問者の頭の中にはテレビで面白おかしくとりあげられる「渋谷系高校生」がイメージされている。しかし一方で90年前後のバブル期に高校時代を送っていた団塊ジュニア世代の私たちも、当時の大学生や20代の社会人は高級車を乗り回し、ジュリアナで騒ぐものだというテレビからの映像を受け取っていた。
高校野球が過剰なまでにひた向きで、純粋な高校生像を作り出している一方で、バラエティー番組等で矮小化された高校生群像が一人歩きしてしまっているテレビのからくりを質問してくる相手に教えるのはそう容易いことではあるまい。
『遠い接近』
松本清張『遠い接近』(光文社)を読んだ。
戦前教育兵時代に受けたリンチを戦後に復讐するという代物であった。軍隊に不満を抱きつつも家族を抱えている軍人は、団体生活の中で、国家に奉仕するという方向性しか見えなくなってしまう現実がリアルに描かれていた。現在のサラリーマンも肩書きを背負ってスーツに身を包み、携帯電話と名刺とシステム手帳で武装しているのだが、現在の企業戦士との類似点がまざまざと想起された。