月別アーカイブ: 2004年7月

『自由に至る旅』

花村萬月『自由に至る旅ーオートバイの魅力・野宿の愉しみ』(集英社新書 2001)を読む。
ツーリングに魅せられた芥川賞作家の花村氏が「一人旅」のススメを説く。思えば今年は、私自身高校を卒業してから初めてバイクのない夏を迎えることとなる。高校を出てからの過去12年間の夏はいつもどこかしらへツーリングに出かけていた。そこで自分自身の来し方行く末を見つめ直し、新たな英気を得ていた。車で一人でドライブに行く気もしないので、今年の夏は買い物用の自転車でどこかへ出かけようか策略中である。

 学生は、いま、即座に、躊躇わず旅にでなさい。それができる状態にあるのですから、旅立たないのは無様であり、怠惰です。当然ながら学校に行くよりもよほど勉強になる。予備知識は捨ててしまいましょうね。見たままでいいのです。それこそが生きた地理の勉強であり、歴史の勉強であり、人間に対する勉強です。本にこう書いてあったと主張するよりも、俺は実際に見てきたんだよ、の一言が絶対的なる神の言葉であります。書物は素晴らしいけれど、所詮は他人の主観、真に受けない能力を鍛えるためにも旅立ちなさい。

『ヰタ・セクスアリス』

森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(新潮文庫 1949)を読み返す。
鴎外は登場人物である金井湛氏をして、あらゆる宗教や芸術の根本に性欲があり、その性欲の萌芽が人間探求の根本に据えられるのではないかと言わしめている。高校時代はどきどきしながら読んだ記憶があるが、今読んでみると、性に対する関心を失ってしまったのであろうか、平々凡々な作品に感じられてしまうのは少し悲しい。

『新撰組』

童門冬二『新撰組:物語と史蹟をたずねて』(成美堂 1994)を読む。
薩摩・長州による維新達成した側の視点から新撰組を描いているので、新撰組のカリスマ性や一徹さよりも、残忍性ばかりが強調されてしまう内容になっている。「恐怖だけが、隊の結束を固める」という土方歳三の言葉に象徴されるように、幕府の形成が明らかに不利になって以降は、70年代前半の新左翼党派の内ゲバ闘争のような様相を帯び始める。「純粋なやつほど早くほろびるという人間社会普遍の真理を、新撰組の軌跡の上で実証したかった」と作者はあとがきで述べるが、新撰組の行動で美談とされる純粋な思いは最後まで理解することが出来なかった。

『阿部一族・舞姫』

森鴎外短編集『阿部一族・舞姫』(新潮文庫 1968)を読む。
漱石のひねくれた社会観に比べ、人間性が素直に出ている鴎外の方が分かりやすい。
「うたかたの記」については「舞姫」の二番煎じの感は拭えなかった。「阿部一族」は初めて読んだが鴎外ならではの人間観が巧みに描かれていて単純に面白かった。ストーリーの前半は江戸時代ある一国の殿様の死後、厚遇や名誉を得ようとばたばたと殿に仕えていた臣下の者が殉死していくという喜劇だが、後半は死者への弔いや主人への恩義を大義としながら殿の臣下たちが紛争状態へと突入していく封建社会ゆえの悲劇となっている。

「かのように」は鴎外自身「一層深く云えば小生の一長者(山県有朋)に対する心理的状態が根調となり居りそこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第に候」と述べているように、社会主義や無政府主義運動が庶民レベルで活発になりつつある1910年代において山県公から危険思想対策、すなわち思想善導の方法を求められ、それに応じて支配階級や保守主義はいかにあるべきかという論拠を小説という形を取りながら述べたものである。2600年も続いてきたという万世一系の天皇制という嘘にしがみつこうとする華族らを守ろうという形をとりながらも、彼らが拠って立つ理由が実はないことを鴎外は主人公の青年秀麿を通じて露呈させる。

人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぼつんと打ったって点にはならない。どんなに細かくすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁も線にはなっていない。角も点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線とがあるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィ(かのように)だね。(中略)自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。(中略)かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心としている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈めたように、僕はかのようにの前に敬虔に頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが澄み切った、純潔な感情なのだ。(中略)祖先の霊があるかのように背後を顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧な、極従順な、山の中の百姓と、なんの択ぶ所もない。只頭がぼんやりとしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。

『「特別支援教育」で学校はどうなる』

越野和之・青木道忠『「特別支援教育」で学校はどうなる』(クリエイツかもがわ 2004)を仏教大学のスクーリングの授業の参考書として読む。
2003年3月に文科省より出された「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」に基づいて明らかにされた「特別支援教育」構想の批判的な検討を意図して編まれたものである。この「特別支援教育」とはこれまでの「特殊教育」に加えて、「約6%程度の割合で通常の学級に在籍している可能性」がある学習障害(LD)、注意欠陥/多動性障害(ADHD)、高機能自閉症などの子どもたちを新たに個別サポートしながら、通常学級での統合教育を目指すという壮大なプロジェクトである。
この「報告」は一見するところ「近年のノーマライゼーションの進展」や「一人ひとりの教育的ニーズに応じた教育」と、これまでの「平等、画一、排除」の論理に支えられた公教育体制を打破するような画期的なものになっている。しかしよく検討してみると、この「報告」では、障害児が安心して頼ることのできたこれまでの特殊諸学校や特殊学級を予算の都合で停止し、障害者に対して基盤整備の整っていない段階でいたずらに自立や自己責任を強請し、結果として「競争主義的な教育」の最底辺に特別支援教育置くというものになってしまう。

しかし、片方でこれまで50年続いてきた現行の就学前検診における一律な分離教育の限界も指摘されている。今後、この文科省主導の「特別支援教育」の流れに片足だけ乗りながら、人間の尊厳を大切にする障害児教育の具体的な実践を現場レベルで積み重ねて乗り越えていくことのできる人材が求められている。