古紙回収に出してしまった、2月16日付けの東京新聞夕刊がようやく手に入ったので、改めて早稲田大学教授石原千秋氏の「ギャップイヤーは日本には不向き」と題されたコラムについて補足を加えつつまとめてみたい。改めて目を通すと、「ギャップイヤー」と「秋入学」の明らかな読み違えをしていたことに気付いた。
著者は本論の中で、東京大学主導で検討されている秋入学を大学だけが実施すると、入学前と卒業後の半年の2回、計1年間のギャップイヤー(空白期間)が生じてしまうことを問題視している。そして、秋入学を実施するならば、ギャップイヤーが生じないように、幼稚園から大学院、企業官公庁の秋採用まで含めて、国家規模で一気に教育全体の時間軸を変えなくてはならないと述べる。
イギリスを中心に定着しているギャップイヤーであるが、イギリスでは、年間の学費が40万程度であり、原則、学生は政府から融資を受け、卒業後に収入が一定のレベルに達してから長期返済する仕組みになっている。こうした奨学金制度が確立していない日本で、前後1年間もの空白期間を留学やボランティアなどで有効に活用できるのは教育費にかなり余裕のある富裕層に限定されてしまう。多くの学生は「社会経験」という錦の御旗のもと、その中身はチェーン店を中心としたアルバイト従事で終わってしまう可能性が高い。そのため、秋入学を導入する有力大学に進学できるのは富裕層家庭に傾斜し、「学歴の再生産」が進んでしまう恐れがある。
また、日本の大学では、自身の興味と適性を見極めないままに大学に入学してくる学生が多い。そうした学生は大学に入ってから、この大学で、この学部でよかったのかと悩み始める。ギャップイヤー付きの秋入学の導入はそうした悩む時間を与えながら、出直しにはさらに一年間も浪費せざるを得ず、実質的に自分の来し方行く末を真摯に見つめる機会を遠ざけるシステムとなっている。
現在、秋入学は30数校の国公立大学と早慶の2つの私立大学が前向きに検討を始めていると報じられている。国公立大学や一部の有名大学はいいが、1年間もの学費収入のない空白期間を持ち堪えられない私立大学が出てくるのではと著者は危惧する。
著者は最後に「こうした様々な事態を避けるためには、莫大な費用をかけてでも、ギャップイヤーのない秋入学を国家事業として一気に導入するしかない。それが日本に見合ったやり方である」と述べる。
こう見てくると、ギャップイヤーを伴う「秋入学」というのは、週5日制を前提とした「ゆとり教育」に性格が似ている。十数年前の完全5日制導入時の文科省の宣伝文句は、土曜日の休みをボランティア活動にあてたり、家族や自然、芸術スポーツとの触れ合いの機会にしたりするというものであった。しかし、家族揃って土曜日が休みで自然や芸術に触れる余裕があるのは正社員と専業主婦の一部の家庭だけであって、家でゲームやパソコンに勤しむ小中学生や、バイトに興じる高校生が多く生まれる結果となった。また、塾に行くことができる「ゆとり」の時間が増え、公立学校の授業内容の削減と相俟って、ますます親の経済力と学力の相関関係が密接なものになる悪循環に陥っていった。
一部の大学が先行する形で議論が進んでいるギャップイヤーも、半年や1年の過ごし方という時間だけで捉えるべきものではない。親の経済力や大学の資金力で差を付けるような制度というのは、長期的に見ると経済格差がそのまま教育格差へ繋がる「貧困の連鎖」を生み出してしまう。そうした観点で秋入学の記事を読むようにしたい。