月別アーカイブ: 2005年10月

『社会人大学生入門』

影山貴彦『社会人大学生入門:社会人だからこそ楽しめる』(世界思想社 2002)を読む。
近年、生涯学習の進展により、通信制大学や夜間大学院など社会人向けの「学び」の場が増えている。しかし、その中身は「高度職業人養成」を目的としたもので、MBA取得やロースクール、ビジネススクールなど、資格取得や実務直結の「学ばされる」勉強が過半数を占める。会社のため、将来のために、睡眠時間を削り、家族との触れ合いも減らすガンバリズム一直線の生活を強いられるのが通例であった。しかし、著者は、「時間を有効に使うのだ!」と肩ひじを張って大学院に行くのではなく、日々の生活の中で置き忘れてきたちょっとした向学心や、年齢を重ねる中で見えてきた分からないことを見つけに行く場と捉え直してよいのではないかと述べる。

みなさんも「忘れもの」を取りに行きましょう。「社会人大学院」は、みなさんの忘れものがちゃんと置いてある場所なのです

『「戦後民主主義」と教育−呪縛を解く』

鳴門教育大教授小西正雄『「戦後民主主義」と教育−呪縛を解く』(明治図書 1995)を読む。
著者は、「人権教育」「異文化理解教育」「環境教育」「平和教育」など多岐に亙る分野において、「戦後民主主義」という妖怪が跳梁跋扈していると言う。その妖怪は威勢の良いスローガン主義や精神論を振り回すだけで、国家や権力を悪の元凶と位置づけ、「正義」を自任する左派勢力のことである。つまり「人間は皆平等」「環境破壊は人間優先の思想の結果である」「平和こそが全て」といった否定できない「正義」を掲げるだけで、「戦後民主主義」は何も創り出さず、ただただ教育の荒廃を招いただけだと著者は批判している。さらに「戦後民主主義」はただ知識を「教える」だけの形だけの教育に安住し、生徒の自主性や個性を奪ってきた。

そこで、著者はこれまでの「知的好奇心を原動力とする情報量格差解消型の授業」や「〈つかむ−調べる−まとめる〉型の硬直化した授業」を脱し、学校教育という教育制度のもつ2つの特質−「集団的」と「計画的」−を生かす授業を提案する。すなわち、作文やディベートなど生徒の表現を引き出す舞台をセッティングし、その集団から生まれてくる生徒の個々の問題に対する価値判断の「ズレ」を生じさせ、その「ズレ」を授業の題材としていく新しい授業のあり方を示唆する。

ここまで書いて分かったのだが、いかにも明治図書的(これまでの硬直化した知識偏重の入力型授業を否定し、生徒の主体性・個性に依拠した出力型の授業の提案)な主張を形を変えて繰り返すだけで、特に新しい内容は無い。その上、西尾幹二や曾野綾子の文章をあちこちに引用した露悪な本である。

『これが初任者研修の実態だ!』

藤井誠二『これが初任者研修の実態だ!:「ものいわぬ教師」づくりへの道』(あゆみ出版 1988)を読む。
臨教審答申が出された頃の教育状況を追ったもので、文科省による「管理教育」「管理職を中心とした学校運営」「受験競争の激化」「日の丸・君が代強制」といった右派的改革と、日教組や全教などが打ち出す「生徒主体の教育」「現場からの積み上げによる学校運営」「創造的な人格の完成を目指す教育」「平和教育の推進」などの戦後民主主義的スローガンの、はっきりした対立軸に沿って初任者研修を説明している。日教組・社会党の路線変更などあり、右も左も分からなくなってしまった現在から見ると、その二項対立の単純さに懐かしさすら感じる。
インタビューに応じた教員の話であるが、過去の生徒観から抜けきれず、型にはまった授業しか出来ない中年教員こそ研修が必要だという指摘は今もって変わらない。

『SEがゆく〜波乱万丈!SE日記』

北村よしみ『SEがゆく〜波乱万丈!SE日記』(星雲社 2001)を読む。
SEというと、パソコンに向かってひたすらプログラムを組むだけの孤独な個人プレーだと思われがちである。しかし、コンピュータシステムは人事管理や在庫管理、はたまた倒産後処理など社内の衝突や軋轢が生じる分野に導入されるケースが多く、SEは決して個人だけで出来る作業ではなく、面倒な連携作業を強いられる仕事である。多忙を極めるにも関わらず、周囲の理解は薄いので割に合わない仕事である。

『受験:その光と陰』

山岸駿介『受験:その光と陰』(教育史料出版会 1990)を読む。
今から15年以上前に出版されたちょっと古い本である。朝日新聞の記者である著者が、80年代後半の証券・土地バブルと時期を同じくして膨らんだ受験業界について、私立学校、国公立学校、塾予備校のどの陣営にも肩入れすることなく、丁寧な取材を試みている。私たちはついつい受験産業というと、「学校vs塾」「私立vs公立」という二項で括ってしまいがちである。しかも、受験勉強一本やりの私立や塾では人間性が疎外され、ゆとりと多様性を持った公立でのんびり過ごすことで人間性が養われるといったお決まりの論調に雷同しやすい。
しかし、様相は複雑で、例えば他県に優秀な生徒が流れるのを防ぐために、県教委が県内の私立学校立ち上げに際して公立の実績ある教員を送り込んだり、私立や中小の塾に生徒を持っていかれないように、公立学校と大手予備校が提携したりすることは日常茶飯事のようである。また、共通一次からセンター試験への移項に伴う混乱とスピード化に伴って、予備校が受験生の志望校判定だけでなく、大学側の辞退率を見込んだ合否のラインの線引すらも握ってしまった話は、理詰めで詰めていく探偵とがむしゃらに逃げる犯人の推理小説のようである。
受験競争の弊害を指摘する事は易しい。しかし、子どもの進路を全く抜きにして教育を行なうことはできない。また、競争やハードルのない環境で人間性を陶冶するのは大変に難しい。その難しさをどう受け止めればよいのだろうか。