月別アーカイブ: 2007年4月

『鳥の歌』

五木寛之『鳥の歌』(講談社文庫 1984)を十数年ぶりに読み返す。
確か高校1、2年生の頃に読んで以来である。高校時代に実家近くの駅前の古本屋で買ったものである。2冊セットで300円ほどで、ビニールに包まれており、開封する際にべりっと表紙のインクが剥がれてしまった代物である。

マスコミや警察が一体となってすすめる管理社会国家に真向から背を向けて、日本国内を放浪しながら日本語とは異なる文字と言葉を持つ全く新しい共同体を築こうとする《鳥の会》との出会いを転機として、新しい生き方に向かう人々を暖かく描く。ラジオ局で働く主人公の谷昌平の以下のセリフが印象的であった。

ぼくらは鳥籠の中の鳥みたいな存在じゃないだろうか。つまり、管理社会というか、組織社会というか、まあひとつ網目の中で限られた空間の中を、定められた飛び方でみんなが一斉に動いている、いや、飛んでるんじゃないんだ。羽を切られてぴょんぴょんはねているだけかもしれない。そんな世の中になってしまっていながら、ぼくら自身はそのことに気づいていない—まあ、そういう意味さ

五木氏は80年代の激化する管理社会に対して、声を挙げて反対するよりも、人間の素朴な心情を原理とするアナーキズムにも通じるようなオルターナティブな生活基盤を構築することを示唆する。
高校時代よりも深く読めたような気がする。

国民投票法案

本日の東京新聞朝刊に、政府が憲法改正の手続きを定める国民投票法案の成立の目処が立ったことに伴い、小・中・高校で主権者としての政治参加の重要性について理解させる「主権者教育」を充実させる方針を固めたとの記事が載っていた。
政府は、選挙権を20歳以上と定める公職選挙法を「18歳以上」に引き下げる改正案を提出するとのことである。選挙権が18歳以上に引き下げられれば、高校在学中に選挙権が行使できる生徒が出てくるため、小・中学校の社会や高校の「現代社会」「政治・経済」での教育内容を充実させ、早い段階から主権者意識を高める教育を目指すという。

ここ10数年、少年法や児童福祉法など18歳、19歳の少年少女の「保護」が取り払われ、義務や罰則など大人と同じ論理が導入されつつある。しかし、一方で選挙権は20歳以上に固定されたままで、権利と義務のバランスを著しく欠いていた状況が続いていた。国民投票法案云々の流れを全く抜きにして考えるに、いたずらな教育に対する政治介入をもたらさない限りは歓迎すべきことであると思う。

恥ずかしながら

先月の社会福祉士試験の合格でやっと2年に及ぶ福祉の勉強に大きな一区切りを付けることができた。その前の養護学校免許取得課程も含めると3年にもなる。
気分を改め,これから5年後に向けた目標を設定し,心身ともに健康を保ち,自分を高めていきたいと思う。

しかし,残念ながら,ここ5年ほど仕事においては低空飛行が続いている。周りから見れば,順風満帆うまく行っているように見えるかもしれないが,私の時計は止まったままである。しばらくは雌伏の時期が続きそうだが,自分の可能性を信じたいと思う。

さて,自分が5年前にどのようなことを考えていたのか振り返りたいと思い,現在のプロバイダーに移る前の雑記帳を今のウェブに戻してみた。
敢えて恥を晒すという意図で,レイアウトだけ調整して他は一字一句直していない。下手くそな自分善がりな文体で半分以上が判読不能である。こんな文章を書いていたのかと自分が一番驚いている。

『高校生になったら:学力・体力・生活力』

田代三良『高校生になったら:学力・体力・生活力』(岩波ジュニア新書 1979)を読む。
最近の若者、とりわけ高校生は変わった、分からなくなったととかく言われる。しかし、70年代当時都立戸山高校で教鞭を執られていた田代先生は、当時の高校生について次のように分析している。

この頃の生徒たちのなかに、成績がいったん低下するとなかなか立ち直れない傾向が強まっているように見えます。もうこの辺で立ち上がりそうなものだと思っても、ずるずるとどめどもなく崩れていってしまう不安さえ感ずることがあるのです。その原因は、この人たちの育ち方のなかにその根があるように思われます。それは、ふつう言われるようなひよわさということよりは、むしろ十分な集団的生活の体験の蓄積を欠いた、孤立的な生活意識の中で育ってきていることのほうに、より大きな原因があるように思われます。
いいかえれば、他者との交流のなかで、相互の力や技の向上を実感できる体験が多ければ多いほど、自分にもやればできるという積極的意欲が湧きやすいのですが、そうした体験が乏しければ、努力の結果としてのひとの力量が、まったく異質のもののようにかけ離れて映りやすいでしょう。

今の高校生観と大きく変わることはない、というか、そのままどんぴしゃりと当てはまる。いつの時代も高校生は不安定でエネルギッシュな存在なのである。現在の高校生が30年近く前の高校生と大差ないことに少し安心感を覚えた。
そして、筆者はそのような当代の高校生の勉強のつまずきを次のように捉えている。

いまはまた、生徒たちの学力の低さが大きな教育問題となり、父母の心配もひとかたではありません。また、いわゆる「できる」子の学力も、上級に行って必ずしも伸びず停滞したり後退することさえあります。こういう学力の低下や不安定の重要な原因になっていることは、ことばの問題があると私は思います。国語や英語だけでなく、数学ができないのも、日本語を使って正確にものを考える力が、基本のところから欠けているからなのです。

著者は国語の教員であり、国語の授業を通し、「ことばの力」が足りない生徒に対して、次のようなアプローチを提案する。

よく、「国語のような教科には正解などない」というのを耳にします。たしかに言語の持つ複雑な働き手や受け手の経験の多様さなどから、一つの表現についてもいくつかの解釈が成り立つことは事実です。しかし、そのことは、ことばの表現にたいするわがままな解釈を許すものではありません。表現のもつ正確な意味はどこまでも追求されなければなりません。それにはまた解釈者自体の豊かなことばの経験の蓄積が必要なのです。高校の学習には、そういう個性と客観性をともに高める学習が望まれるのです。