月別アーカイブ: 2010年11月

『水曜の朝、午前三時』

蓮見圭一『水曜の朝、午前三時』(新潮社 2001)を読む。
大阪万博開催当時の1970年、朝鮮総連のスパイに恋した女性が、癌で亡くなる直前に、娘に宛てた過去の禁断の恋愛の回想記という形で小説が展開する。
これまで家族にもひた隠しに隠してきた理由が朝鮮総連絡みということで、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といったような感じぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ。

『赤い文化住宅の初子』

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テレビで放映された、タナダユキ監督『赤い文化住宅の初子』(2007 フィルムパートナーズ)を観る。
昭和の貧乏物語の現代版である。父親が失踪し母親が病死した、孤児の兄弟の生活を描く。生活保護なども活用されず、中学校の担任からも見捨てられるというあり得ない設定なのだが、主役の東亜優さん始め、くせのある俳優が妙な雰囲気を醸し出している。

本日の新聞から

毎月最終日曜日の東京新聞朝刊に、立教大学大学院教授の内山節氏のコラムが連載されている。
本日の朝刊もいつものように書き写しながら、その「背景」に横たわる問題を少し考えてみたい。

もしも日本の社会から稲作が消えていくとしたら、それは善なのか悪なのか。この問いに対する答えは、何年かけて消えていくかによって全く違うものになる。
仮に二千年かけて消えていくとするなら何の問題もない。日本の稲作の歴史はおよそ二千年なのだから、それと同じくらいの時間が保障されれば、その間に新しい食文化も生まれるだろうし、農民も新しい農業形態を生みだしながら、稲作に依存しない農村をつくりだしていくだろう。
では十年の稲作を一掃したらどうなのだろうか。これは間違いない間違いなく悪である。なぜならこんな短期間に変えてしまったのでは、私たちの食生活も、農民や農村社会も対応できなくなってしまうからである。このことは自然に対しても言える。自然や生態系も少しずつ変化している。だから自然の変化自体は悪ではない。ところが人間が一方的な開発などをすすめると、自然はその変化に対応できずに崩壊していく。自然が変化に対応していける時間量は保障しないで変動を与えることは、自然の破壊を招くのである。
最近でも、社会の変化にはスピードが大事だという意見をよく聞く。もちろん簡単に直せるものが、既得権にしがみつく人々によって阻害されるのは問題あるが、自然や人間たちが対応するために必要な時間量を保障しない変化は、社会を混乱させ、最終的には社会に重い負担を負わせることになる。
この視点から考えれば、近年の雇用環境の急激な変化は誤りであった。なぜならあまりにも急速に安定雇用の形態を崩してしまったために、この変化に対応できない大量の人々を生み出してしまった。それが生活が破壊されていく人々や就職できない若者たちを数多く発生させ、さまざまな社会不安の要因までつくりだしてしまっている。
年金制度や医療保険制度を変えるときにも、このことは念頭においておかなければいけないだろう。人々が変化に対応する時間量を保障しなければ、たとえどんな改革であったとしても、私たちの社会は、混乱と疲弊の度を増すことになる。
振り返ってみれば、戦後の急速な社会変化や都市社会化も、この問題をはらんでいた。もしも、もっとゆっくり都市社会が拡大していったら、人々は自分が暮らす場所にコミュニティーを生み出すなどして、都市の暮らしに対応した仕組みを自分たちでつくりだしていったことだろう。だが戦後の日本は、その時間量を保障することなく都市を拡大しつづけ、その結果として、今日のような、バラバラになった個人の問題を次々に浮上させる社会を形成させてしまった。
しかも時間量を保障しない変化は、その変化についていける強者とついていけない弱者を、必然的に生み出してしまうのである。ここに弱者と強者が分離していく社会が発生する。さらに述べれば、すべての変化に短時間で対応できる人などいないから、たとえば経済の変化には対応できても、都市社会の変化には対応できない、といった人々は必ず生まれてくる。経済活動のなかでは強者でも、社会生活のなかでは弱者になっている。私たちは介護や認知症といった問題をかかえたとき、この現実に直面することなる。
自然にやさしいとは、自然が生きている時間に対して、やさしいまなざしをもっている、ということだ。同じように、人間の生きている時間に対しても、やさしい社会を私たちはつくらなければいけない。

武専のレポート

本日武専のレポートを正味3時間ほどで仕上げた。半年前から課題内容も期日も分かっているのに、最後ぎりぎりまでやらずに、慌てて速達で送ることになった。文章の推敲もしていないし、思いついたまま綴っただけのブログの域を出ていない駄文である。

〈 少林寺拳法を教育に生かす 〉

はじめに
今年度、勤務校を異動となり、少林寺拳法部の顧問を務めるようになった。また教員生活も十年を越え、授業や担任だけでなく、新しい手法での授業や学校全体の教育課程などにも視野を広げ、それを生徒だけでなく、教員にも伝えていかなくてはならない世代となった。一九七八年の少年部指導研究会での法話の中で、開祖は次のように述べている。

 私が今日ここまで来たのは「少林寺拳法で得たものは少林寺拳法へ返そう。」だからみんなも損せいとは言えんが、少なくとも道楽(人を育てる道で楽しむと書いて道楽)としてやってもらえばありがたいな。道楽というのはもともと金もかかるし、暇もいるし、えらい目もする。でも楽しい。そういうものでやってもらえるかどうかで違うな。

開祖は半ば自分が楽しみながら、半ば他人を育てることが少林寺拳法の極意だと説く。この論で、少林寺拳法の教えと、高校教育との共通点を探ることで、技術だけでなく、少林寺拳法の教えを学校教育の現場に活かす方法を探ってみたい。

第一節 修行目的の確立
少林寺拳法は本来が人間完成の道であるので、その修行は保健体育、精神修養、護身練胆の三徳を目的として編纂されている。具体的には、心を修め、技を練り、身を養って、円満なる人格と、不屈の勇気と金剛の肉体を得ることである。そしてその階梯として、修行の順序、基本を学ぶこと、理法を知ること、数をかけること、修行を片寄せぬこと、体力に応じて行うこと、永続して行うことなどが心得として掲げられている。
文部科学省は二年後より完全実施の学習指導要領の実施に向けて、「生きる力の育成」「知識・技能の習得と思考力・判断力・表現力等の育成」そして、「豊かな心や健やかな体を育成すること」を掲げている。
小中高校における授業の目的は専門性を極めることではない。学校の授業内容は学校へ来たり、家庭で机に向かって本を読んだりするきっかけでしかないと私は考えている。学校の授業は、学ぶ内容以上に、学びに対する興味関心、学ぶための心身の訓練、そして、学ぶ姿勢を身につけることである。学校教育法第五十一条には、高校の目的として、「豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと」とある。この法律の言わんとするところは、数学の難しいグラフや英語や古文の文法、世界史の年号を覚えることが教育の目的なのではなく、あくまで「国家及び社会の形成者として必要な資質」であったり、「社会の発展に寄与する態度を養う」人間になるための手段として学びに対する興味関心、姿勢や習慣を作ることが肝要であるということだ。
以上、文科省の教育政策を概観してきたが、少林寺拳法の「技術」を学校の授業で培う「学力」と置き換えれば、少林寺拳法はまさに、教育そのものであることが分かる。少林寺拳法は活人拳であり、「生きる力」の育成そのものであり、またその究極の目的は、まさに高校教育の目的である理想郷建設にむけた人づくりにある。少林寺拳法では、技の上達を人格の向上につなげ、そして本当の強さを持った自分を作ることで、自分の幸せと同時に他人の幸せを考えられる人間になる、そしてそうした人間を作ること、その再生産システムを明確に定義づけしている。一九七六年の第一次指導者講習会での法話の中で、開祖は次のように述べている。

 少林寺拳法という一つの技術はエサであって、本当は我々の生き方考え方を教える場である。あるいは学ぶ場である。人生の幸せというもの、宗教も芸術もすべてのものが人類の幸せに通じるとするならば、幸せとは何なのかということを私は人間関係の中に見出したわけですから、独りよがりの芸術家みたいな心境とも違うし、誤魔化しの新興宗教のようなものでもない。お互いが自分の尊厳と存在を認めて、お互いが助け合うことによって、人間同士の生きている社会で幸せというものをつくり得るんだという、そういう本当の姿をわからせる場にもう変わってもいいじゃなかろうかと思います。

開祖の言うように、少林寺拳法も学校教育も専門家を育成することが主眼ではない。技術や学力は手段・方法であって目的ではない。少林寺拳法は確かに護身の技術として魅力的ではある。しかし、指導者の私たち自身がその魅力に騙されることなく、人間感性の道だということを強く意識しなければならない。また一教員として、学力の向上に腐心するだけでなく、教育の目的に立ち返って日々実践を重ねていくことが求められる。

第二節 拳の三訓
最近の高校生は、学力や進学、部活動での大会の結果ばかりに注目がいき、肝心の「学ぶ姿勢を正す」という習慣が疎かにする傾向が顕著に見られる。技術や授業を学ぶ上で、挨拶や、服装に始まり、言葉遣いや話の聞き方、清掃といった「学ぶ」姿勢が前提である。しかし、近年教育界全体で、内容を合理的に理解することのみが重視され、教員の側も授業だけ学力だけつけておけばよいという発想に流されがちである。学ぶ内容にだけフォーカスが当てられ、パソコンやプレゼンテーションソフトを活用した授業、ゲーム的手法を取り入れた授業などに注目が集まり、肝心の子どもたちの服装や座り方、立ち方、言葉遣いなどが二の次にされている。一九六九年の整法講習会での法話の中で開祖は次のように述べている。

 おれはなんぼか払ろうて習ろうたんだから、権利だ、義務だと言うたら、こんな水臭いものはないね。こんな嫌味なものはない。人間というものは心の働きが大切である。そこに今の、現代教育のひとつの私は欠陥があるように思う。権利、義務ではない。感謝と奉仕の世界、これが宗教や道徳、要するに人間の社会なのである。権利、義務だけではないということを覚えてくれ。

また、教範で、開祖は「道を学ぶ者の姿勢」として次のように述べる。

 「技芸」にはすべて「格」と云うものがある。道を学ぶものは、先ず正しく師の教えに従い、師の形を学び、その形の「格」に至ることを目標にして、我流に堕することを戒めなければならない。

合理的な教え方や、生徒の個性に振り回されて、指導者の「形」を学ぶということが形骸化している現状に対する厳しい警告である。技術や授業のみを教えるだけで済まそうとするのではなく、指導者自身が生徒の人間完成の目標像とならなくてはいけない。そしてまず指導者自身が「脚下照顧」し、自分自身の学びの姿勢、教える姿勢を正し、生徒がそれを「格」として学んでいくという教育から私たちは外れてはならない。

おわりに
私たち教員は、効率的な教え方、学び方というものについ目が向きがちである。しかし、教範や法話を学ぶ中で、そうした効率性や合理性を追求していくことで、こぼれ落ちていく当初の目的や学びの「姿勢」が見えてきた。少林寺拳法の教えを生かし、生徒への指導、そして後輩教員への指導にあたっていきたい。

参考文献
宗道臣『少林寺拳法教範』(総本山少林寺 1979)
文部科学省『高等学校学習指導要領解説』

「すれ違った2つの歴史」

本日の東京新聞夕刊に、大学時代お世話になった早大教授塚原史氏の「すれ違った2つの歴史」と題されたコラムが掲載されていた。

 (中略)1970年のその日、昼前だったろうか、大学生の私は、思想書の読書サークルの仲間たちと、神田川に架かる面影橋から、増水した流れを激 しい不安を抱いて見つめていた。前夜、同じサークルの下級生たちが、おそらくまったく個人的な理由で、この橋から身を投げたのだ。当時は水流が速かったか ら、そのあたりに彼が見つかるはずはなく、