一橋大学学長石弘光『大学はどこへ行く』(講談社現代新書)を読む。
大学入学者全入時代を迎え、日本の大学は、これまでの文部科学省による護送船団方式から、競争原理を導入し、世界に通用する大学を目指さなくてはならない、そのために学生もしっかり勉強しろという内容である。そして学生による授業評価制度、第三者による大学評価、東工大・東京医歯大・東外大との4大学連合構想などの提言があふれている。国立大学の独立行政法人化への移行に際して、行政法の照らして公務員の身分の扱いを論じている項目は興味深かったが、学長という立場からのみ大学を捉えているので、本書の定義する大学が大変狭苦しいものに感じられてならない。例えば学生の表現活動については以下のように述べる。
学生諸君の立看板、ビラ貼り、チラシ配りに関しては、これまで長いこと学内で、「言論の自由」か「学内の美化」かで論争を生んできた。学長選挙の折、公開質問状にもその是非を巡る質問が出されていた。これに関し学生の間でも賛否両論あるようで、副学長の粘り強い交渉にも拘わらず、学生側から譲歩を得るにいたっていない。国立大学の建物・キャンパスは、国民の税金により作られたものである。当然、大学はそれをきちんと管理し、きれいに維持する責任を持っている。いくら言論の自由とか広報活動の意義を認めたとしても、野ざらしの立看板、何十枚も連続で階段に貼り巡らすビラ、期限をすぎてもビラを剥がそうとしない無責任な態度、机のいたるところに無差別にビラを置きまくる行為など、是非自粛して欲しいものだ。
学生に英語力やら、グローバルリテラシーやら自己表現能力を身につけろと述べつつも、都合の悪い意見は潰してしまえというものである。戦後反戦運動、反差別運動に、学生にとっての大学という基盤がどれだけ下支えしたのかという点が石氏の状況認識からはすっぽり抜けてしまっている。1960〜70年代の大学闘争があったからこそ、今まで大学は護送船団方式で一定の「学問の自由」が守られてきたのだ。
同じ一橋大学大学院の教授である鵜飼哲氏と数年前新宿で飲んだことをふと思い出した。鵜飼氏は立看板、ビラ貼りを規制する輩には、所詮議論の土台が違うんだから、そいつの身体に直接糊でビラを貼り付けちゃえと述べていた。乱暴な議論であるが、そんなものだろうと思う。