糸井重里『インターネット的』(PHP新書 2001)を読む。
内容的には特に目新しいものはなく、著者の主催しているサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」のコンセプトについて社会学的に語ったものだ。しかしさすがにコピーライターらしい文章仕上がりになっている。私自身今月に入りこのページに毎日書き込みをしているわけだが、共感できる点も多かった。私自身がいま考えている問題とも大きく重なってる部分を引用してみたい。
いま思っていることは新鮮なうちに、いま言ってしまわないと、ほとんどが消えてしまうのです。その程度で消えてしまうものはたいしたものじゃない、という言い方もできるのですが、試しに語ってみる、とりあえず始めてみることによって、アイデアやクリエイティブは膨らんだり、転がったりして、大きな何かに化ける可能性があるのです。(中略)とにかく、いろんな場面で着想の断片でもいいから投げかけあう。(中略)インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっとも重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで、「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。画面の向こう側とこちら側に「人間がいて、つながっている」という実感が、クリエイティブを生み出すこと、送ること、受け取ることの楽しさを思い起こさせてくれたことが、革命的なのだと思っています。
インターネットが爆発的に日本に普及してすでに7年あまりの月日が流れているが、最近はネットバブルの崩壊や出会い系殺人など否定的な側面で捉えられがちであるが、インターネットの持つそもそもの「つながる」という感動を著者は改めて指摘している。
また著者はかつてファミコンのゲーム「mother」の製作を指揮していたが、彼の描くユートピア的な社会観がこの本にも滲み出ている。彼は「インターネット的」社会について次のように語る
「食物を持つ・生きられる満足」を得ようとする農業社会の時代が、「ものを持つ・力を持つ満足」の工業化社会の時代に移行し、「ことを持つ・知恵を持つ満足」の情報化社会の時代がきたのですから、次は、持つことから自由になって「魂を満足させることを求める」社会がくるのではないかと考えても、そんなに不思議はないと思うのですが。
糸井氏は、山岸俊男著『安心社会から信頼社会へ』(中公新書)から大きなヒントを得て、「ほぼ日」が生まれたという。山崎氏の「正直は最大の戦略である」という主張を、「無理に他人をだましたりしなくてもいいし、好き好んで善人であろうとして不自然なガマンをしなくてもいい、という「自由」な生き方を肯定してくれる思想になる」と読み替え、インターネット的社会の根幹には「信頼と魂」が据えられると主張する。ノンセクトラジカル的というかアナーキスト的というか不明だが、当たり前のことを述べているようで、やはり確実に全共闘の思想を通過している。(確か彼は法政の中核派に属したことがあったのでは…、いやノンセクトに「転向」したんだっけ…)