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【訃報】極真空手全日本王者、空道創始者の東孝・大道塾塾長が逝去

以下ヤフーニュースより

2021年4月3日(土)、全日本空道連盟・大道塾の東孝塾長が逝去。大道塾が公式HPにて発表した。

東塾長は昨夏より末期胃がんの診断となり根治を目指し闘病していたが、2021年4月3日14時35分に永眠。71歳だった。

1949年5月22日、宮城県仙台市出身。柔道を学び、陸上自衛隊を経て早稲田大学在学中に極真会館に入門。早稲田大学極真空手部を創設し、初代主将となる。1973年の第5回全日本空手道選手権大会に初出場すると、翌年には準優勝。第8回3位、1977年の第9回では初優勝を果たす。1975年の第1回全世界空手道選手権大会では6位入賞、1979年の第2回では4位入賞と優れた成績を残す。“人間機関車”と称され、パワフルな下段廻し蹴りで極真空手の黄金期を築いた一人。

極真会館を退会すると、1981年2月に大道塾を設立。頭部に防具を着用して顔面攻撃を可能にし、投げや関節技も認める“格闘空手”を創始。総合武道『空道』としてロシアを中心に世界へ広めた。

なお、葬儀などの今後の日程についてはコロナ禍のため後日決定するとのこと。

【えんとつ町のプペル】キンコン西野感動の舞台挨拶

今冬公開された映画『えんとつ町のプペル』で原作・脚本・製作総指揮を務めたキングコング西野さんの舞台挨拶の動画です。
2学期の授業中に紹介した近畿大学の卒業式のアドリブ講演会の続きのような内容となっています。映画を観ていなくても、表現者としての彼の思いは伝わると思います。
大きく遠回りして聴衆の関心を引きつけながら、ズバリ核心をつくテーマに話を切り替えていく話術は参考になりますね。

『中野重治・堀田善衞 往復書簡 1953-1979』

以下、影書房のサイトより
少し余裕が出来たら、手にとってみたい。

竹内栄美子、丸山珪一 編

中野重治・堀田善衞 往復書簡 1953-1979

2018年11月22日発売
四六判 上製 328頁
定価 3800円+税
ISBN978-4-87714-480-7 C0095
装丁:桂川 潤

家・中野重治と堀田善衞が、冷戦下の1953年から中野が亡くなる1979年までに断続的に交わした全書簡82通。
これらの書簡からは、民族独立運動を背景にしたアジア・アフリカ作家運動、中ソ論争からソ連等のチェコスロヴァキア侵攻事件、中野の日本共産党からの除名問題、キューバの新たな模索、ヴェトナム戦争等々、国内外の政治・社会が激動する時代において、これに向き合い、それを考えるなかから作品を発表し、発言し行動を起こしてきた文学者たちの肉声が聞こえてくる。
書簡の内容を補完するために、書簡ごとに詳細な註を付した。また解説として、鎌田慧、海老坂武、栗原幸夫各氏による本往復書簡をめぐる書き下ろし論考と、中野・堀田と同時代を生きた文学者、竹内好、加藤周一、鶴見俊輔による中野論・堀田論を再掲。さらに中野重治による堀田論、堀田善衞による中野論を収録し、巻末に関連年譜を付した。
戦後、国内外で政治と民主主義が大きく揺れ動くなか、戦後のあるべき文学と生き方を模索し格闘した文学者たちの証言。

 

〈編者・著者〉

●中野重治(なかの・しげはる)
1902年福井県生まれ。詩人・小説家・評論家。1926年堀辰雄らと『驢馬』を創刊。同時に,新人会に入会,マルクス主義,プロレタリア文学運動に向かう。日本プロレタリア芸術連盟,「ナップ」,「コップ」の結成に参加。運動の方針をめぐる議論のなかで多くの評論,詩,小説を発表。主な作品に、「村の家」「歌のわかれ」「五勺の酒」「梨の花」「甲乙丙丁」など。1947年~50年参議院議員。1979年没。

●堀田善衞(ほった・よしえ)
1918年富山県生まれ。小説家。1944年国際文化振興会から派遣されて上海に渡るが、敗戦後は中国国民党宣伝部に徴用されて上海に留まる。中国での経験をもとに、小説を書き始め、47年に帰国。52年「広場の孤独」「漢奸」で芥川賞を受賞。海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席。他の主な作品に、「歴史」「時間」「インドで考えたこと」「方丈記私記」「ゴヤ」など。1998年没。

*     *     *

●竹内栄美子(たけうち・えみこ)【編集】
1960年大分県生まれ。明治大学文学部教授。専門は日本近代文学。主な著書に『アジアの戦争と記憶』(共著、勉誠出版)、『中野重治と戦後文化運動』(論創社)、『中野重治書簡集』(共編、平凡社)、『戦後日本、中野重治という良心』(平凡社新書)ほか。

●丸山 珪一(まるやま・けいいち)【編集】
1941年大阪府生まれ。金沢大学名誉教授。中野重治を語る会代表世話人。堀田善衞の会代表。主にルカーチ・ジェルジ、中野重治、堀田善衞の名と結びついた分野での研究と取り組む。

●竹内 好(たけうち・よしみ)
1910年長野県生まれ。中国文学者・評論家。魯迅の研究・翻訳のほか、アジア的な視座から多くの文化・文学評論を手がける。主な著書に『魯迅』(日本評論社)、『現代中国論』(河出書房)ほか。1977年没。

●加藤周一(かとう・しゅういち)
1919年東京生まれ。医学博士、評論家、作家。文学・芸術・政治・文化全般にわたる評論を展開。主な著書に『羊の歌(正・続)』(岩波新書)、『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房)ほか。2008年没。

●鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ)
1922年東京生まれ。哲学者・評論家。46年『思想の科学』創刊に参加。主な著書に『戦時期日本の精神史』(岩波書店)、『戦後日本の大衆文化史』(岩波書店)ほか。2015年没。

●鎌田 慧(かまた・さとし)
1938年青森県生まれ。ルポライター。社会問題を幅広く追及、執筆。主な著書に『自動車絶望工場』(講談社文庫)、『六ヶ所村の記録』(岩波現代文庫)、『大杉栄―自由への疾走』(岩波現代文庫)ほか。

●海老坂 武(えびさか・たけし)
1934年東京生まれ。フランス文学者・評論家。主な著書に『フランツ・ファノン』(講談社)、『サルトル』(岩波新書)、『戦争文化と愛国心――非戦を考える』(みすず書房)、訳書に『黒い皮膚、白い仮面』(ファノン著、共訳、みすず書房)ほか。

●栗原 幸夫(くりはら・ゆきお)
1927年東京生まれ。編集者、評論家。べ平連、アジア・アフリカ作家会議などに参画しつつ、コミュニズム運動史、プロレタリア文学史等を研究。主な著書に『プロレタリア文学とその時代(増補新版)』(インパクト出版会)、『わが先行者たち―文学的肖像』(水声社)ほか。

「現代史描き出す書簡 「中野重治・堀田善衛 往復書簡 1953-1979」が刊行」

以下、北陸中日新聞のホームページから

「中野重治・堀田善衛往復書簡1953-1979」竹内栄美子・丸山珪一編

 戦後日本文学を代表する作家中野重治(一九〇二~七九年)と堀田善衛(一八~九八年)の往復書簡八十二通を収めた「中野重治・堀田善衛往復書簡 一九五三-一九七九」(影書房)が刊行された。未発表六十一通を含む。

 年齢こそ十六歳離れていたものの、中野は福井県坂井市、堀田は富山県高岡市の出身で、ともに北陸で生まれ育った。それだけでなく、現代史における日本のアジア侵略の事実から目をそらさない姿勢から、互いに厚い信頼関係で結ばれていたことが分かる。戦後の日本現代史においても貴重な資料になる。

 収録した書簡は、冷戦下の一九五三年から七九年の中野の死の直前までのもの。ユダヤ系アメリカ人の電気技術者と妻が旧ソ連に原爆製造の機密情報を流したとして死刑判決を受けて執行されたローゼンバーグ事件、五六年に始まり二人が関わったアジア・アフリカ作家会議、六八年のチェコ事件など、戦後史における国際的にも重要な事件についてもやり取りが交わされている。「発表された文章とはまた異なる肉声が書簡からは聞こえてくる」(竹内栄美子・明大教授『中野重治と堀田善衛-戦後史の中で』)。

 資料として、生前の中野と堀田が互いの文学について記した中野の「堀田善衛小論」(初出一九七四年)と堀田の「墓からの声-中野重治追悼」(同八〇年)を収録。解説編では、編者の竹内教授と丸山珪一・金沢大名誉教授がそれぞれ書簡を読み解いているほか、加藤周一の堀田論、竹内好と鶴見俊輔さんの中野論を掲載。ルポライター鎌田慧さん、フランス文学者の海老坂武さん、編集者・評論家の栗原幸夫さんによる書き下ろしの論考も。三千八百円(税別)。

SAMURAI BLUE(日本代表)監督に森保一氏が就任

昨日、次期ワールドカップ日本代表監督にサンフレッチェ広島の選手・監督として森保一氏が就任した。
その就任挨拶の中で胸を打つコメントがあったので一部を紹介したい。

 また私は現役を引退してからサンフレッチェ広島の育成コーチをしながら、日本サッカー協会でもトレセンコーチとして活動をさせていただきました。その経験は今の私に非常に大きなものとなりました。何かと言えば、地方を回って、グラスルーツのところから、いろいろなカテゴリーの活動を見させていただきました。指導者の方々がプロとして指導で生計を立てている方はごくわずかで、大勢の方々は仕事があり、家庭もあり、そして自チームの選手を見て、さらにトレセン活動に参加している。本当にボランティアの精神で自己犠牲を払って、選手を育ててくれているということ。そういう活動をクラブでも日本サッカー協会でも見させていただきました。

 そういう方々の努力があって、選手が育ち、私が今、仕事をさせていただく日本代表やオリンピック代表に選手を送り込んでいただいているということ。全ての指導者の努力があり、環境を整えてくださる周りの努力があって、我々は素晴らしい選手たちを見ることができる。日本を代表して戦うことができるということを忘れてはいけないと思います。そういう方々の気持ちを背負っていつも戦うということ、そこは肝に銘じて戦ってまいりたい。

少年や中学生、高校生などのアマチュア選手をボランティアで面倒みている指導者とその関係者の方の熱意が、世界で戦う日本代表を支えているとの趣旨である。サッカーに限らずスポーツ界全体を見渡してもほとんど聞かれなかったコメントである。自分の所属するチームや家族への謝意は数多くあったが、「自己犠牲を払って選手を育ててくれる」指導者の方へ配慮する代表監督というのはこれまでいなかったのではなかろうか。これから前途多難であろうが、最後まで応援したい監督である。