月別アーカイブ: 2002年5月

『DNA・遺伝子の不思議にせまる本』

中原英臣『DNA・遺伝子の不思議にせまる本』(成美文庫)を読んだ。
ヒトゲノムビジネスや遺伝子治療について分かりやすく書いてあって面白かった。DNAの問題は様々な分野に関わっており、マスコミでの報道も散発的なのでなかなか実態が掴みにくかったが、少し頭の中で整理出来た。
ただ日本人の起源やホモサピエンスの誕生などがミトコンドリアDNAの分析で説明がついてしまうというのは味気ないと思った。神話や文学というものは、これまでの自然科学では解明されていなかった人類の誕生や人間心理の妙を創造力豊かに描いてきたのであるが、そうした人文科学が積み重ねてきたドラマが覆されるような思いがした。例えば柳田国男が伊良湖の浜辺で見つけた椰子の実から日本人のルーツに思いをはせたことや、聖書の創世記に描かれているアダムとイブの楽園の話などがすべてDNA解析によって否定されてしまう。特に日本人起源論については文化人類学・民族学・言語学・宗教学等、様々な立場から分析が加えられており、学会の大きな論題となっている。しかしそうした喧々諤々の論争も、ATLウイルスのキャリアの分析によって南方系古モンゴロイドと大陸系の新モンゴロイドの交配が日本人の祖先であるといったDNAレベルでの結論の前には為す術もない。確かにDNAの示す解答が正答なのだろうが、どうも割り切れないものを感じる。どうやら遺伝子学の発展は医学薬学に対する影響だけでなく、文学・哲学の分野に及ぼす風当たりも強いようだ。

……ちょっと酔っているので読みにくい文章になった。

埼玉スタジアム2002

今日は日中、浦和の方へ出かけた。途中埼玉スタジアム2002の脇を車で通ったのだが、近くにある県立浦和東高校の案内標識に韓国語が交じっていた。いよいよ日韓共催のワールドカップが近いことを実感した。思えば最近テレビを観ていると韓国が自然に出てきていることに気付く。SMAPの草薙くんがハングルを口にする姿も板についてきた。また韓国の音楽や映画を目にする機会も増えてきた。ヨーロッパを中心に移民排斥の右傾化が強くなりつつあるが、ワールドカップ後も自然な形で日韓の文化交流が続くことを期待したい。

東京新聞朝刊より

本日の東京新聞の朝刊に分かりやすい良い投稿が載っていた。こうした分かりやすさが大切な気がする。

 「歴史は繰り返される」(ローマの歴史学者クルティウス・ルフス)の有名な言葉がある。今、日本がその言葉の岐路に立たされている気がしてならない。小泉首相が性急に進めている「有事法制関連三法案」がそれだ。最近はテロ事件や侵略戦争が続く国際情勢であるが、国民生活の自由を束縛し、憲法の精神を逸脱した政府の軍事優先の姿勢には理解しがたい。政治家は過去の重い戦争の歴史を忘れてはいないか。
「十二月八日」はまだしも、「八月十五日」がどういう日か知らない学生が多いという。戦後五十七年、戦無派が大多数となった幸せな時代であるが、あの戦争の真相や原因を知識として学ぶことの必要性を感じる。
物事が行き詰まったら「歴史に学べ」とよくいわれる。今の政治、社会、教育のさまざまな難題を考える時、歴史特に、明治維新からの近現代史を世界史的視野で学ぶことが大切だ。昔から歴史の授業は時間がなくなり”しり切れとんぼ”のケースが多い。実はそのしっぽが肝心なのである。
私は戦中派で苦い体験をしてきたので、このしっぽに特別な思いがある。昔、生徒に歴史を教える立場だったので何とか太平洋戦争まではと思っていたが、駆け足になり今でも悔いを残している。最近は、学校も休日が増え、四月からの授業は三割減になった。高校生の孫に歴史はどこまでやったか、と聞くと「大正の初めまで」の答えだった。
やはりそうか…。最も大事なしっぽの部分が欠落したままで終わってしまったようだ。昭和史を含む近現代史をしっかり学べば、今の政治問題の手助けになるだろう。憲法だって戦前戦後の対比をすれば改憲論議の是非も、戦前の富国強兵は貧民強兵の飾り言葉にすぎなかったことも理解できよう。そして日本特有の天皇制と政党制、国民の義務と責任。一国のリーダーの品質、教育と倫理の重要さも分かろう。
歴史の個々の事実は一つだが、無数の事実の中から多角的に歴史を見る目(歴史観)が大切だ。特に近現代史を学ぶことによって今政府が向かおうとする道が将来の確かな道か判断できるのではないか。
(埼玉県秩父市 無職 宮前昇 79)

『恋人たちの誤算』

唯川惠『恋人たちの誤算』(新潮文庫〉を読んだ。
ハッピーエンドではない恋物語であり、会話のない二人の間を埋める気持ちの探り合いが真に迫っており面白い作品だった。特に婚約を直前に破棄して飛び出してきた侑里と透の生活のすれ違いは読者の興味を引かせる。結婚を前提としてつき合い始めた二人だったが、段々気持ちが離れていき、侑里は段々精神的に変調を来してくる。しかしデパートに行き、シャツやらバッグやら手当たり次第に買うと気持ちが落ち着き、会話の全く無い透との生活にも耐えられるのだ。そしてそれらの商品は一度も使われることなく押し入れの段ボールにしまい込まれる。その点の病的な心理ー逃避ー描写が畳みかけるように読者に伝わってくる。

 侑里は黙って段ボールを抱き締めていた。何も考えない、何も言わない、という方法を見つけた時、これでいいと思った。これで透と穏やかに暮らしていけるなら、感情というものを全て捨ててしまっても構わない。実際、その方法は成功したかのように思われた。しかし身体の内側は錆びついていた。侑里はだんだんと息苦しくなっていた。何とかしなければと思った。でないと、貯め込んでいたものを一気に吐き出してしまうかもしれない。そうしたら、すべてはおしまいだ。
今、よくわかる
このモノたちは、侑里が言えなかった言葉の代償だ。ワンピースは「昨夜どこに行ってたの?」、バッグは「いつになったら両親に挨拶にゆくの?」、スーツは「女がいるの?」、イヤリングは「私たち、これからどうなるの?」
けれど、もう駄目だ。このままだったら、私たちは本当に駄目になってしまう。今まで、回りの誰もに幸福を装って来たけど、もう限界だ。救けが欲しかった。

金大中離党

先日、韓国大統領の金大中が息子の不正疑惑や側近の逮捕に関して、与党新千年民主党を離党したが、日韓ワールドカップ開催が近いというのに、日本ではあまり大きく報道されていない。韓国では盧泰愚元大統領と金泳三前大統領も政権末期に与党離党を余儀なくされているが、大統領制の韓国政治は議院内閣制の日本の感覚ではやはり理解が難しい。小泉総理も郵政民営化論に関して、「自民党が小泉政権を潰す」と息巻いているが、議院内閣制のもとでは小泉内閣は政権与党自民党を母体とするしかない。小泉総理の発言は制度的には齟齬を来しているのだが、手垢のついた「改革派vs抵抗勢力」の構図に当てはめてみれば理解しやすいのだろう。