月別アーカイブ: 2002年4月

『デジタル産業革命 「情品経済」の仕事力』

山根一眞『デジタル産業革命 「情品経済」の仕事力』(講談社現代新書)を読む。
ちょっと古い本なので、ADSLが普及した今現在読む価値はあまりない。しかし後半部分の強引な社会分析には文章に勢いがあった。この強引さには嫌悪感を通り越して感動さえある。

「ローン係数」が高い家庭とは、大都市内に先祖伝来の土地を持たぬ地方出身者が築く家庭が中心だ。その家庭では、住宅ローンの支払いのために夫婦共稼ぎが必須となる。都市における女性の社会進出は、こうして拡大していった面もあろう。かつて社会から隔離された家庭に閉じこめられていた女性たちは、その社会進出によって自らの社会的役割を意識するようになっていった。統帥権を失ったオヤジと働きに出る母。郊外のこぎれいなベッドタウンの住宅地の家庭は空洞化が進み、そこに育つ子供たちは家族がいない家に放置され、淋しさを味わう日々を過ごすようになる。子供の成長にとって親は最初にぶつかる社会だといわれてきた。社会のルールも理不尽さも、うるさい親とぶつかることで社会人として欠かせぬ心の平衡を身につけていく。だが、ぶつかるべき親のいない家庭に育った子供たちは、そのぶつかり先を友人間に向けた。その衝突には、親が持つような抑制機能がないため歯止めがきかなくなり、校内暴力やいじめへと発展していった。また、その空虚な家庭をもたらしたものが、住宅ローンという経済的圧迫であることを幼い頃から学んだ子供たちは、カネに対する執念を強くもつようになった。手軽に小遣いを稼げる方法として、援助交際や風俗でのアルバイトに向かう者が続いたのも不思議ではない。

『あのころのこと ー女性たちが語る戦後政治ー』

岩見隆夫『あのころのこと ー女性たちが語る戦後政治ー』(毎日新聞社 1993)を読む。
歴代の戦後政治の要職に就いた議員の妻の視点から戦後政治を振り返るという内容だ。三木武夫夫人の三木睦子や、園田直外相夫人の園田天光光、江田三郎社会党書記長夫人の江田光子、池田勇人夫人の池田満枝らが夫の私的な交友関係を中心に政治の裏側を語る。
特に戦後初の女性議員となった「餓死防衛同盟」代表の園田天光光さんの話が興味深かった。敗戦の年の末に餓死防衛同盟のメンバーで国会に向けて行進をしたところ、そのまま幣原総理と会見が実現したというのだ。戦後の憲法が発布される以前は、まだ国会への直接請求が可能であったのだ。何か皮肉な話である。

また「貧乏人は麦を食え」で有名な池田勇人氏が、戦時中は家族を春日部に疎開させており、土日に「今晩はゆっくり寝られるね」と言いながら春日部にやってきて、近所の税務署の人から白い銀飯をもらっていたそうだ。春日部周辺は米所でコシヒカリの作付けが多い。彼の発言ー本来の趣旨とは異なって伝えられているがーの底意に春日部での経験があったのではと邪推してしまった。

労働の喜び → 激落ちくん

忙しさはやはり変わらない。一日中ばたばたしている。

最近アパートの掃除に凝っている。疲れているときに無心に掃除をするというのはストレス解消に良い。現在の日本では、仕事が時間と分担によって断片化されてしまい、そこで働く労働者自身が自分の仕事が全体のどこに位置づけられているのかつかみにくい。そのために仕事を通じての達成感が実感できず、仕事に対する疎外感から心身ともに疲れてしまう。この点について『資本論』(河出書房)の中では次のように紹介されている。

たとえば多量の完成品が一定期間内に供給されねばならないとしよう。すると労働が分割される。同じ手工業者にさまざまな作業を時間的に順次に行なわせる代わりに、それらの作業がたがいに引離され、孤立させられ、空間的に並立させられ、それらの作業の各々が別の手工業者に割り当てられ、全作業をいっしょにしたものが協業者たちによって同時に遂行される。(中略)これらの作業は、経験によって、さらにずっと細分化され、孤立化されて、個々の労働者たちの排他的職分にまで自立化された    (「分業とマニュファクチュア」)

その点、部屋の清掃というものはその作業に従事するものにとって、全体像が把握でき、創意工夫をこらしつつ、達成感を得ることができるものである。つまり労働者にとって一定のよろこびを伴うものである。10年以上前にテトリスというゲームが大ヒットしたが、そのからくりは全体把握、一定の工夫を加える余地、目に見える達成感の3つの条件をクリアーしていた。

私が現在掃除に凝っているのはもう一つ理由がある。それはスポンジにある。今、「激落ちくん」という洗剤を使わないスポンジが気に入っており、お風呂に入りながらあちこちキュッキュッとこすっている。お風呂周りの目に付かない水あかが落ちていく感覚が手に伝わってくるので面白い。この「激落ちくん」であるが、サイズが5種類あり、「激落ちベイビー」「激落ちママ」「激落ちパパ」「激落ちキング」とラインナップされている。スポンジという無味乾燥な清掃用具にキャラクターの要素を与え差別化を図っていくアイデアはなかなか鋭い。そのうちウルトラマンのように、「激落ちタロウ」やら「激落ちエース」「帰ってきた激落ちくん」「激落ち80」などが現われてくるのだろうか。

『はるか、ノスタルジイ』

山中恒『はるか、ノスタルジイー失われた時を求めてー』(講談社)を読む。
映画監督の大林宣彦氏と親しく、『転校生』、『さびしんぼう』に続いて映画化された作品であり、私も10年以上前に池袋へ観に行った記憶がある。過去を抹殺した男が、仕事でたまたま小樽へ帰ってきた際、抹殺したはずの過去の自分に出会うという純文学的なペーソスが漂う内容である。しかし、どうしても映画のシーンが脳裏をよぎり、文章の醸し出す世界に没入できなかった。

最近めちゃくちゃ忙しくて、本を読む時間がない。悲しいことである。よって、どうしても4月いっぱいは更新の頻度が落ちてしまいます。数少ないこのページを見て下さる方へ、申し訳ないです。

『ジーキル博士とハイド氏』

スティーブンソン『ジーキル博士とハイド氏』(新潮文庫)を読んだ。
作家中島敦氏がスティーブンソンの生活を描いた作品を発表しているが、まさに虎に変身してしまう『山月記』の原型のような作品。善人で通っているジーキル博士の心の奥底に眠る悪心がハイド氏となって具現化されてしまうのだが、後半部はそのジーキル博士がまだ自身の心を有しているときに、友人宛に書いた手紙を公開するという展開になっている。ジーキル博士の自身の心をコントロール出来ないという告白は、いくら仕事や名声が高まっても、その主体たる自己が確立されなければならないといった教育論として読むことも出来る。