先日、ニック・カサヴェテス監督のアメリカ映画『ジョンQ』(2002 米)を観にいった。
金のかかっていない映画であったが、なかなか面白かった。デンゼル・ワシントン演じるジョンQが息子の心臓移植リストへの登録を要求するために、病院を占拠するわけだが、舞台劇を観ているような生々しさを感じた。
また面白いことにチェーンで占拠された病院内ではベテランの医者と新米の医者と患者と患者の家族の関係性が崩れていくのだ。そして新米の医者の口から貧乏人を救わない医療保険制度の欠陥が語られ、ベテランの医者の口からは医療体制の矛盾が語られる。ちょうど全共闘でのバリ封内での解放区のような議論が展開される。結局ジョンQは犯罪者として罪に問われるのだが、それはそのままアメリカの医療保険制度の不備を指摘するものであった。
月別アーカイブ: 2002年11月
『情報を捨てる技術』
諏訪邦夫『情報を捨てる技術』(講談社ブルーバックス 2000)を読む。
パソコンのハードディスク内の効率的な使い方の指南書である。特にマックユーザーには得るところない本である。しかし、この手の情報活用のハウツーものはきちんと読んだ上で、「くだらない、読む必要なし」と切り捨ててしまうくらいがよいのであろう。
『エクスタシー』
村上龍『エクスタシー』(集英社文庫 1995)を読む。
表題をつけるなら、「セックスとSMとドラッグに溺れた人間模様」と表されるのであろう。原著は1993年1月の刊行である。バブル経済に溺れる日本人の裏心情をSMとドラッグでもって象徴させるという手法は10年前は機能したのであろう。しかし、バブルもすっかり過去の記憶となった2002年の現在に読んでも正直ピンと来ない。
『エイズの基礎知識』
山本直樹・山本美智子『エイズの基礎知識』(岩波ジュニア新書 1993)を読む。
最近HIV感染症(エイズ)という単語はマスコミの話題にのぼらないが、ウイルスの恐さを改めて知った。
昨日の東京新聞の朝刊にも出ていたが、世界的にはウイルスによる感染症が増えているということだ。エイズだけでなく、デング熱やエボラ出血熱、ウエストナイル熱、ニパウイルス感染症といった症例が世界各地で報告されている。またインフルエンザもここ近年猛威を振るっている。薬学部進学のパンフレット等を読むと、医化学の発展によりDNAの解析も進み、人工のウイルスが開発されるような時代も近いといったことがほのめかしてある。ちょっと間違えると人類の滅亡にもつながる恐い技術である。
『箱舟の去った後』
五木寛之討論集『箱舟の去った後』(講談社文庫 1974)を十年ぶりくらいに読み返した。
今は亡き稲垣足穂や久野収氏など8人と社会・歴史・文学を自在に横断する討論が展開されている。確か高校時代に読んで、いつかはこのような幅広い討論ができるような評論家になりたいと夢見ていたものだが……。
この中で五木氏の鋭い指摘があったので長い引用になるが紹介したい。
だから歴史というものをだれが動かしていくか、歴史の関心をどこに当てるかというときに、無名に民衆に当たるときと、そのリーダーに当たるときとあって、この波が交互にあらわれる。戦後民主主義科学の一連の流れの中で、歴史は無名の人間たちが動かしてきたのだ。歴史は人民の歴史である。現代の歴史は水俣の市民たちのように、民衆の怨みの歴史である、そういう歴史がずっといままで支配してきたわけです。そういうものに対する一つのリアクションとしてここに出てくるのが「怨」に対する「誠」、「至誠天に通ず」で国とか民衆を考えていこう、政治を「誠」でやっていこうという考え方が出てくるわけです。
たくさんの人間が歴史をゆり動かしていくとき、その上に立つリーダーが霊媒みたいなもので、ジャンヌ・ダルクはジャンヌ・ダルクでなくてほかの人でもよかった、だれかがジャンヌ・ダルクをつくったのだという観点に対して、いやジャンヌ・ダルクでなきゃだめだった、ナポレオンでなきゃだめだったというように、個人個人のヒーローの役割を最近重視してくるようになったのじゃないか。つまり人民人間主義というか、民衆人間主義というか、トータルとしての人間観に対して、今度は一つ前の近代的自我、といってはおかしいけれども、個人として歴史上の人物の役割を再評価しようという動きがずいぶん強く出てきているような気がするわけです。(「歴史読本」1973年7月号)
現在の新しい歴史教科書グループの誕生を予見したような文章である。歴史観というものは、その客体である過去の歴史を捉えるだけでなく、その主体である現在の社会・政治状況の動向を示唆する。歴史にヒーローを見出そうとする歴史観は、ヒーローを待望する現在の世相の表れである。この文章が私が生まれたまさに73年の7月に書かれたという意味を考える必要がありそうだ。