今日で一応夏休みは終了した。夏休みの始めに誓った一日一冊、合計44冊の読書三昧アクションは実行当初から破綻し、結局計画の7割程度しか実行出来なかった。しかし、かなり面白いなと思う本を何冊か読むことが出来たのがせめてもの救いか。
来年度から日常の忙しさにさらに拍車が掛かりそうなので、今年度の後半はきちんとした勉強の時間を確保したい。
月別アーカイブ: 2007年8月
だらだら〜『五勺の酒』
雀の涙ほどしかない夏休みを満喫している。先週練習で腰を痛めたので、昨日、今日と運動を控え、読書や家の清掃に時間を使っている。たまにはこのようなだらだらした夏休みもよい。
昼はソファでだらっとしながらテレビのワイドショーを見るともなく見ていた。4チャンネルも6チャンネルも朝青龍関のモンゴル帰国について持ち切りであった。報道陣は朝青龍関を成田から延々と後を追い、果てはモンゴルのウランバートル郊外の草原まで疾走する車を追いつめていた。
確かに朝青龍関は横綱という看板を背負っている以上、マスコミにとやかく言われるのは仕方がない。しかし、彼とてモンゴルの田舎から単身出てきた26歳の青年である。子どもを抱えているので、たまには仕事をサボって保養することも、親方や理事会から叱られひねくれることもあろう。日本人であればすぐに田舎へ帰ることができるが、交通機関が整っていないモンゴルの草原にはおいそれと帰ることはできない。
とかくマスコミは国技だからという理由にもならない理由を持ち出し、横綱という「神格」を作り出し、封建的で窮屈な鋳型に無理に力士を押し込めようとする。報道を見ていると、日本の国技である相撲は全生活を犠牲にして精進すべきものであり、家族を優先する者や外国人には務まらないものだと言わんばかりである。彼の個人的資質はさておき何とも寂しい限りである。
かつて、文学者中野重治は『五勺の酒』という小説の中で、主人公に次のように言わしめている。
このことで僕は実に彼らに同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。
せめて笑いをしいるな。しいられるな。個として彼らを解放せよ。僕は共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇の天皇制からの解放にどれだけ肉感的に同情と責任を持つか具体的に知りたいと思うのだ。
つまり、中野は天皇という制度こそを厭うべきであり、昭和天皇およびその家族を個人として共感できる気持ちがないと、真に天皇制度を解体していくことはできないと述べているのである。
現在の朝青龍問題を考える際においても、中野の指摘は考慮に置いて然るべきであろう。
『時事少年:流行と事件のアーカイブ1999〜2001』
爆笑問題『時事少年:流行と事件のアーカイブ1999〜2001』(集英社 2001)を暇つぶしに読む。
厚底ブーツやポケモン、シドニー五輪の話など数年前の話なのに妙に懐かしく感じる当時のニュースネタで、おなじみの二人(太田一人の自作?)のボケとツッコミの掛け合いが展開される。ギャグやシャレに混じって常識を斜めから見るような太田の視点が鋭い。
内閣改造
本日安倍総理による内閣改造があった。
その中で、防衛大臣に少林寺拳法振興議員連盟の会長を務める高村正彦氏が就任したことに注目したい。少林寺拳法は「守主攻従」「不殺活人」を掲げ、決して自分からは手を出さず、相手を傷付けない武道のあり方を目指す武道である。先手必勝で一般市民に爆撃を仕掛け、その後内戦混乱状態を作り何千人もの死者が出ている米イラク戦争を、防衛省のトップとして、そして少林寺拳法を修業する一拳士としてどう評価し判断するのであろうか。今後、彼の発言、防衛省の動向を注視していきたいと思う。
千鳥ケ淵戦没者墓苑
本日の東京新聞の朝刊に、社民党が東京都千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑を拡充、整備して「無宗教の国立戦争犠牲者追悼施設」とするよう求める提言を、来月9月にも正式発表するとの記事が載っていた。福島瑞穂党首が15日の追悼集会で「すべての戦争犠牲者をきちんと追悼することが今の政治に求められている」と強調したとのことである。
全く同意である。A級戦犯を含め、(侵略)戦争を戦った日本軍もしくはそれに準ずる関係者のみを合祀し、戦争の一番の犠牲となった一般市民や外国人は排除されている。そうした偏った合祀を続ける靖国神社を国が公式に参拝するということは侵略戦争を肯定することにつながる。社民党では千鳥ケ淵墓苑を「すべての戦争犠牲者を追悼するとともに、二度と戦争をしないと誓う場」としたいとしているが、天皇や内閣全員が千鳥ケ淵に参拝し、国民に二度と戦争をしない国家作りの姿勢を示す必要があると考える。