月別アーカイブ: 2005年1月

『大学でいかに学ぶか』

 今日でやっと高校三年生の授業が終了した。
 授業やホームルームの中で大学への進学を「絶対」的なものだと無責任に喧伝しなかっただろうかと内省し、一冊本を読み返してみた。

 増田四郎『大学でいかに学ぶか』(講談社現代新書 1966)を読む。
 40年以上も前の古い本であるが、50版近く増刷されているベストセラーである。著者自身の貧しい生活をしながら大学で学んだ過去を紹介しながら、一研究者という立場から謙虚に学問の価値について論じている。著者が卒業式に教え子へのコメントとして「学則不固」と書いたエピソードが印象に残った。「学べば、すなわち、固くならず」ということである。私自身大学生の時代は、本で学ぶ勉強は頭が固くなる原因だと思っていた。しかし、最近は何かしらでも学ぶことをしないと、逆に頭が日常の生活状況に「規定」されてしまうとつくづく実感する。

 しかし、著者の増田氏は一橋大学の学長の経歴からであろうか、大学内における「ゼミナール」を絶対的なものと捉える傾向にあり、当時勃興しつつある学生運動に下記のような批判的な意見を加えている。

 いたずらに政治的になり、否定的な批判だけにはしり、いたずらにスローガンだけをかかげて、しかも責任をもたないでやって、それを実践だと思っているひとがいないでしょうか。けれども、真の実践活動というものは、もっとじみなものなのです。変革が起ころうと、改良主義に終わろうと、もっと大きな目標をもって、じみな仕事をしていくことです。最初から派手なスタンドプレーをしたところで、あるいは勇ましいことをいったところで、成功などとても望めません。ことに、学問の世界にあっては、その仕事は根っからじみなものです。

『キャラクター・コミュニケーション入門』

 秋山孝『キャラクター・コミュニケーション入門』(角川oneテーマ21 2002)を読む。
 これまで漫画アニメ大国である日本において正当に評価されてこなかった「キティちゃん」や「ペコちゃん」といったキャラクターの芸術的価値と資産的価値について分析を加えている。キティちゃんやアンパンマンにしろ、また、フェリックスや鉄腕アトムにしろ人気のあるキャラクターの造形には一定の法則があることを秋山氏は明らかにしている。そしてその法則は幼い子どもの描くデフォルメ化された動物の絵と大変良く似ている。この法則の延長上にある限りキャラクターは永遠であると著者はまとめる。

『大変な時代』

 先日読んだ本の中で、内橋氏が批判の的に挙げていた本を敢えて手に取ってみた。
 堺屋太一『大変な時代』(講談社 1995)を読む。
 しかし、内橋氏の本を読んだ後ではほとんど印象に残るところはなかった。堺屋氏はこれからのグローバリゼーションの進展にあたり、「メガ・コンペティション・エイジ(大競争時代)」がやってくるから、腐敗した官僚制度に頼らず、徹底したローコストな「経営製造流通制度」の確立と消費向上を狙った産業の育成が大切だと述べる。官僚による「護送船団方式」を排除し、自由な競争の土壌を作ることこそが日本を救うといった民主党右派的な論調である。

 しかし、それから10年たったが、彼の述べるリストラと価格破壊は日本の経済成長に何らの寄与もしなかった。そして、一定の雇用の確保と育児・介護といった社会保障の充実こそが少子化を食い止め、労働者の勤労意欲を高め、引いては経済成長も促すという当たり前のことが再発見されたのである。

『浪費なき成長』

 内橋克人『浪費なき成長』(光文社 2000)を読む。
 内橋氏は神戸出身で、神戸の震災復興策が日本型経済を象徴していると述べる。神戸の震災復興で当時の政府がもっとも力を入れたのは道路や橋、港湾施設、鉄道などの「マクロ生産基盤」の回復であった。しかし、当時の村山首相の「自然災害に個人補償はない」という声を裏付けるように、被災地の人々の暮らしは震災前よりも明らかに生活水準が低下し、失業率は回復の兆しを見せていない。阪神大震災から今年で10年経ち、高速道路や駅など見る限り震災の傷跡は既に完治したように見える。しかし、そこに暮らす人々の生活は何百兆円の赤字国債の穴を埋めるに、敢えて莫大な公共投資による経済浮揚を計るような「浪費」を重ねるのではなく、「生きる」「働く」「暮らす」という、これまで分断されてきたものを統合しようという方向を目指さねばならないと述べる。

『レフト・アローン』

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2005年2月5日よりユーロスペースにて

『レフト・アローン』公式ホームページより引用
1968年生まれのひとりの映画監督が、68年を探る映画を撮る。
学生たちの政治運動。革命。そして、68年を境に政治運動はカウンター・カルチャーと結びつき、80年代にはサブカルチャーとして脱色化されていく…。68年は、ニューレフト運動にとって決定的な転回点であった。映画は、2001年に早稲田大学で勃発したサークルスペース移転阻止闘争において非常勤講師でありながら学生達と共に大学当局と闘う批評家、スガ秀実の姿を捉えることから始まり、松田政男、柄谷行人、西部邁、津村喬にいたる60年代の学生活動家たちと対話を重ねていく。

『レフト・アローン1』では、ニューレフトの誕生から、花田清輝と吉本隆明の論争、68年の安保闘争に至る過程をスガ秀実、松田政男、鎌田哲哉、柄谷行人、西部邁とともに様々な角度から検証し、『レフト・アローン2』では、68年革命の思想と暴力という問題、1970年7月7日の華僑青年闘争委員会に始まる在日朝鮮人・中国人等に対する反差別闘争の衝撃、毛沢東主義の新たな可能性から、現在の大学再編と自治空間の解体をめぐって、ニューレフトの行方が、スガ秀実、松田政男、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔によって語られていく。体制への反逆。60年安保という激動期。思想と暴力。それぞれの闘争と転機。悲劇から喜劇へ。そして、今なお左側を歩き続けていくことの孤独。早稲田の路地を歩くスガの後姿に、彼方に向かって糞を転がしつづけるスカラベサクレ(糞転がし)の姿が重ねられる…。