月別アーカイブ: 2006年3月

『m2われらの時代に』

宮台真司・宮崎哲哉『m2われらの時代に』(朝日新聞社 2002)を読む。
月刊誌『サイゾー』に連載された対談がまとめられている。所々小難しい社会学の学説やら個別芸術作品の話が出てきて読み飛ばしてしまったが、両者とも二項対立的な右翼や左翼といった形式的なイデオロギーや社会観から物事を捉えることに一貫して異議を唱え、小林よしのりや「市民派」を気どる政治家を悪辣に批判する。
宮台氏は次のように述べ、過去の戦争に対する評価をいたずらに操作しようとする自由主義史観のグループや旧来の左翼の論理の欠陥を指摘する。

これから戦争を考えるときに必要なのは、戦争で死んだ人間を、生き残った人間や国家がどう評価しようが、「本人がなぜ戦ったのか」「生きてたらどうなったのか」とは全く関係のないことなのだという圧倒的な事実への敏感さです。近代国家は、大義に併せてそうした個人の時間性を利用し、動員して、戦争へと組み上げるのだから、戦争を肯定するにも否定するにも、そうした事実への想像力を働かせることが、倫理的に必要なことだと思います。

□ 日刊サイゾー、サイゾー、ウルトラサイゾー、Webマガジン □

「初期雇用契約」『ルポ解雇』

ここ数日フランスで、若者雇用促進政策「初期雇用契約」に対する学生の抗議が続いている。ソルボンヌ大学などの学生のデモも1968年のスチューデントパワーの再来のように激しいものとなっている。日本でもここ数年で劇的に正規労働者が減る一方で、パートや派遣などの非正規労働者が増加し、所得の格差がアメリカ並に拡大し、優勝劣敗の社会に変貌しようとしている。健常者すら正規採用は狭き門になっているのに、ましてやいわんや障害者をや。しかし、パリでの労働に対する熱い闘いも、マスコミの報道に接する限り日本では対岸の火事である。どうしてなのだろうか。

Paris200603

そこで、島本慈子『ルポ解雇:この国でいま起こっていること』(岩波新書 2003)を読んでみた。
島本さんは労働基準法改正案や労働裁判の過程を具に検証する中で、解雇理由の立証が経営サイドに有利に進められ、復職に向けたフォローもない現在の労働裁判の実態を明らかにする。労働は人間性の基盤そのものであり、商品でない。司法の独立により身分保障された職業裁判官に非正規雇用労働者の苦しみがどれだけ実感として分かってもらえるだろうか。
島本さんは雇用の流動化が日本社会の様相を大きく悪い方向に変えてしまうと危惧する。そして次の言葉で論をまとめている。規制改革の号令の下で雇用の保障すらも撤廃し、リストラを敢行した企業が株式ゲーム市場で評価され、一部の成功者だけを持ち上げるマスコミを巧みに操作する小泉政権に対する鋭い警鐘が含まれている。

(全日空の子会社の下請け企業で、従業員が一斉に解雇された)関西航業の人たちの言葉で心から離れない一言がある。
「身分は下であっても、一人に人間として生きる権利は同じではないか」
この叫びを踏みにじる方向へ、この国は動いている。「労働者が多様な働き方を選択できる可能性を拡大」というスローガンのもとに、企業にとって利用しやすい雇用形態が作られ、「働き方」に応じた労働条件を確保するという文句で、下に位置する者への不当な扱いも公認されていく。いま作られようとしているのは「身分によって生きる権利が変わる」社会であり、「職業には貴賎がある」という思想を公然と語る差別社会である。

芸術のフランス語からビジネスの英語へ

今朝の東京新聞に、EUの首脳会談で、フランス人のセリエール欧州産業連盟会長が演説の途中で「ビジネス用の言葉にする」とフランス語から英語に切り替えた途端に、仏シラク大統領と外相が会議を中座したとの報道が載っていた。小さい記事を読む限りの判断だが、恐らくはフランス国内向けのパフォーマンスであろうが、あくまで自国語にこだわるというシラク大統領の姿勢は評価できる。
フランス語を話せるということは合理的理性的な「近代」的素養をもった人間の証であり、フランス語の前では民族や宗教、地域といった「前近代」的なイデオロギーは無力化されてきたという歴史がある。言語ナショナリズムが他者の排斥ではなく、他民族の受け入れを促してきた側面がある。
日本でも戦前のようなアジア諸国に対する不健全な言語政策ではなく、いい意味で移民問題を解決できる言語のあり方を考えていきたい。

『野村克也 カニの念仏集』

永谷脩『野村克也 カニの念仏集』(ポケットブック社 1993)を読む。
通勤の途中で毎朝必ずTBSラジオの「森本毅郎スタンバイ!」という番組を聞いている。番組中毎週月曜日にスポーツコラムを担当する、少しかすれた声の永谷さんが気になって手に取ってみた。
スポーツ担当というと、選手の派手な活躍やチームの勢いを後追いすることに終始することが多いが、永谷さんは地道な取材を重ね、練習中の選手の不安や緊張、試合後の監督の心境など映像になりにくいスポーツの側面をマイクを通して伝えてくれる。過日のWBCで日本の準決勝進出が掛かったアメリカ―メキシコ戦でも、肝心の試合の中身ではなく、試合の最中に中華料理屋で昼食をとっていた内心ドキドキの王監督の一挙一動を詳細にレポートしていた。スポーツは最終的には人間ドラマであるので、こうした報道によって選手監督の人間性に直に触れることができる。
この野村監督に関する本でも、野村采配に関する技術論ではなく、野村監督のぼやきをとりあげ、野村監督に内面に迫っている。スポーツ選手たるもの、チームの中で自分を活かすには、常に他人のことに気を遣うだけの余裕が大切だという持論を展開する野村監督の人柄がよく伝わってくる。選手一人一人の個性や技量に応じて指導方法を変えていく野村監督の野球論の根底には次のような野球哲学が潜んでいる。

すべてのものは無にはじまり、無にもどると言うじゃないか。野球は雑多な要素がいっぱいあるわけで、打席に立ったときに、より無駄なものをなくすために、素直な気持ちで無にかえれるために、ミーティングをやるのだ。野球はむずかしいものだということを教えるためにやっているのではない。

□ 森本毅郎・スタンバイ! | 出演者紹介:永谷脩 □

社事大レポート

社事大の第3期のレポートを今日まとめ終えることができた。前回は締め切りぎりぎり午後11時半に郵便局に駆けつけたのだが、今回はゆとりをもって書き上げて提出することができた。第4期も早めに仕上げたいものだ。