昨日の東京新聞の夕刊に一橋大学大学院教授の鵜飼哲氏のコメントが掲載されていた。
小泉総理のワンフレーズポリティクスに対して「改革、改革、ぶち壊す、と叫ぶだけで何も創造しない。破壊しかしなかった、ある種の新左翼のアジ演説に似ている」とコメントしている。
更に在日韓国・朝鮮・中国人の子弟が国立大学受験資格で差別された問題を取り上げ、大衆迎合主義の行き着く先は、結局は大衆性に欠けた米国型の弱肉強食社会の追従でしかないことを訴えている。
月別アーカイブ: 2003年10月
『東大落城』
佐々敦行『東大落城』(文春文庫1996)を読む。
1992年に文芸春秋で連載された「東大のいちばん長い夏」を大幅に補筆・加筆したものだが、内容はさておき四半世紀以前の事件を細かいディテールまで丁寧に描いている。回想シーンが適宜挿入され、ルポルタージュとしては一流のものであろう。しかし当時東大「落城」にあたって、機動隊の指揮を担当した警備第一課長であった作者の目を通しているので、黙々と任務を遂行する機動隊の活躍を男気に描き、学生運動の影で暗躍する公安部の姿は省かれている。しかし当時の状況を鑑みるに、あくまで「特別警察」である機動隊が存在しなかったら、「軍隊」の自衛隊が出ざるを得ず、「天安門事件」のような最悪の事態を招いたであろうという指摘は、自衛隊が海外の「戦闘地域」へ派遣されてしまう現在においてもいろいろと考えさせる。また「全共闘世代が全共闘運動の総括をする勇気を欠いたことから、平成世代との間にはジェネレーション・ギャップの深い断層が横たわっている」という意見には頷かざるを得ない。
『人生を変える読書』
武田修志『人生を変える読書』(PHP新書2001)を読む。
「自分自身の体験を交えながら名著の案内をする―こういう本は、多少の読書家をもって自任する人なら、だれしも一度は書いてみたいものではないでしょうか。」とあとがきで述べているように、作者オの多少の自慢が交じっており、読後感の悪いものであった。
そんな中で、ショーペンハウアーを読んでいたら、「愛とは同情である」と書いてあったんですね。これなら分かる気がしました。それというのは、「同情」という日本語は、今では意味するところが相当下落して「同情なんかされたくない」というふうに使ったりしますが、もともとの意味、つまり「情けを同じくする」という意味での「同情」です。ドイツ語では「ミット・ライデン」と言うのです。直訳すると「共苦」という意味です。「他人の苦しみをわが苦しみとする」ということです。これが「愛」だとショーペンハウアーは言っているのです。
『バイクカタログ2004』
ROAD RIDER特別編集『バイクカタログ2004』(立風書房 2003)を買って貪るように読んでいる。
現在手元に同じ立風書房発行の『バイクカタログ』の1993年版と1998年版があるが、わずか10年で隔世の感がある。93年版ではまだバブルの頃の影響か、高回転高出力のハイパワー型バイクが幅をきかせいているが、98年版では大型バイクを中心にフューエルインジェクション(電子式燃料噴射装置)が導入され、2ストバイクのラインナップが減り始めている。そして今回の04年版では排ガス規制や騒音規制がいよいよバイクに及び始め、ヤマハのR1-ZやホンダのCR250といった2ストオフ車がすっかり消え、すべて4ストになっている。というかそもそもレプリカ自体がカタログから外れている。またカワサキの900ニンジャも既に過去のバイクとなってしまっている。カワサキファンであった私としては少々つらいところだ。しかしその反面大型バイクの限定解除が楽になったためか、リッターバイクや大型スクーターの充実が目を見張る。はたしてバイクにあとどれくらい乗れることやら。。。
『硝子戸の中』
夏目漱石『硝子戸の中』(新潮文庫1952)を読む。
1915年の1月から2月にかけて朝日新聞に連載された小品文を集めた作品である。ちょうど早稲田南町7番地に住んでいた頃の作品である。ちなみに私は学生時代に早稲田南町5番地にあった双台荘という家賃2万5千円のアパートに住んでいたことがあり、現在は漱石公園となっている漱石の旧家跡にバイクを停めていた。明治末の当時から猫が多い土地であったそうだが、私の学生時分も猫が多かったと記憶している。しかし現在では完全な都心の住宅地になっているが、当時は東京の中心から遠く離れた田舎そのものであったらしい。
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするときには、どうしても人家のない茶畠とか、竹薮とか又は長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていた(中略)矢来の坂を上がって寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終暗かった。あの土手の上に二抱えも三抱えもあろう大木が、何本となく並んで、その隙間々々をまた大きな竹薮が塞いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちに恐らくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄などを穿いて出ようものなら、きっと非道い目にあうに極っていた。あすこの霜融は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭には染み込んでいる。
恐らくは現在の外苑東通り付近を描いているのだろう。現在では全く緑のない入り組んだ住宅地になってしまっており、隔世の感は否めない。その他漱石の家紋に由来する喜久井町や、夏目坂などに対する漱石のコメントが面白かった。