大宮知信『学ばず教えずの大学はもういらない』(草思社 2000)を読む。
大学審議会答申以降の大学改革について東大、早大、慶大の3校を中心に批判的に論じている。大学の授業が「学級崩壊」を起こしていると学生の不勉強を嘆くが、それ以上に大学教授、教育制度が破綻しているのではと批判の目を向ける。特に大学教育については「戦後の教育は個を殺す教育であり、創造性をつぶすことに意味があったんですから。一定のパターンを暗記して、パターンとパターンの結びつきで応用ができる能力、そして注意深いこと、学生の求められてきたのはこれだけです」という一橋大学法学部の福田教授の言を紹介し、そうしたパターン学習に一番習熟した東大出身者が多い企業ほど衰退していくと論じる。確かに銀行や重厚長大産業、官僚の世界においてリスクを伴った独走的な発想が欠けているのは確かであろう。
学術オリンピックをやっているわけではないのだから、外国との競争の行方より問題は、大学の役割だ。何のためにだれのために研究するのか、という哲学の土台なき専門家集団になってしまっていることが問題なのだ。専門性の上に立つ新しい教養人、または教養の土台がある専門家を育てることができるのかが問われている。どうしたら大学は社会に貢献できるのか、研究者の目標、大学全体の教育目標はあるのか、あるとすればそれは何なのか、ないとしたらどうすればいいのか。それを考え、若者の心を学問に駆り立てるのが教育ではないか
著者は上記のようにと至極真っ当なことを訴える。さらに次にように述べる。
企業は『役に立つ技術開発』を求めるが、大学は産業界のために『先端技術』を研究しているわけではない。いま大学に求められているのは、産業界に先端技術を提供することより、公害や薬害など近代文明がもたらしたマイナス要因を取り除く方法を考え、産業構造の転換を含め、今後の日本のあるべき方向性を示すことではないか。産学協同研究は一つ間違えば癒着を生む。企業におんぶにだっこで『学の独立』が保てるのか
とこれまた80年代的な理想的大学像を示す。しかしそうした理念を持った大学を生み出すためには、全大学の独立民営化の徹底、私学助成金の廃止によって大学を淘汰していくしかないと結論づけるしかないところに、現状の大学改革の行き詰まりがにじみ出ている。