月別アーカイブ: 2004年1月

『学ばず教えずの大学はもういらない』

大宮知信『学ばず教えずの大学はもういらない』(草思社 2000)を読む。
大学審議会答申以降の大学改革について東大、早大、慶大の3校を中心に批判的に論じている。大学の授業が「学級崩壊」を起こしていると学生の不勉強を嘆くが、それ以上に大学教授、教育制度が破綻しているのではと批判の目を向ける。特に大学教育については「戦後の教育は個を殺す教育であり、創造性をつぶすことに意味があったんですから。一定のパターンを暗記して、パターンとパターンの結びつきで応用ができる能力、そして注意深いこと、学生の求められてきたのはこれだけです」という一橋大学法学部の福田教授の言を紹介し、そうしたパターン学習に一番習熟した東大出身者が多い企業ほど衰退していくと論じる。確かに銀行や重厚長大産業、官僚の世界においてリスクを伴った独走的な発想が欠けているのは確かであろう。

学術オリンピックをやっているわけではないのだから、外国との競争の行方より問題は、大学の役割だ。何のためにだれのために研究するのか、という哲学の土台なき専門家集団になってしまっていることが問題なのだ。専門性の上に立つ新しい教養人、または教養の土台がある専門家を育てることができるのかが問われている。どうしたら大学は社会に貢献できるのか、研究者の目標、大学全体の教育目標はあるのか、あるとすればそれは何なのか、ないとしたらどうすればいいのか。それを考え、若者の心を学問に駆り立てるのが教育ではないか

著者は上記のようにと至極真っ当なことを訴える。さらに次にように述べる。

企業は『役に立つ技術開発』を求めるが、大学は産業界のために『先端技術』を研究しているわけではない。いま大学に求められているのは、産業界に先端技術を提供することより、公害や薬害など近代文明がもたらしたマイナス要因を取り除く方法を考え、産業構造の転換を含め、今後の日本のあるべき方向性を示すことではないか。産学協同研究は一つ間違えば癒着を生む。企業におんぶにだっこで『学の独立』が保てるのか

とこれまた80年代的な理想的大学像を示す。しかしそうした理念を持った大学を生み出すためには、全大学の独立民営化の徹底、私学助成金の廃止によって大学を淘汰していくしかないと結論づけるしかないところに、現状の大学改革の行き詰まりがにじみ出ている。

『サブカルチャー反戦』

大塚英志『サブカルチャー反戦』(角川書店 2001)を読む。
9・11テロが起きてすぐにアニメ雑誌「ニュータイプ」などに寄稿した若者に向けた反戦メッセージである。大塚氏は国際的な枠組みやテレビのアイドルタレントが気軽に「平和ぼけした日本」と発言してしまう

最後に著者がおたくに対して伝える言葉が印象に残った。

どうせ人間は何かに騙されたり入れ込んだり踊らされたりしなきゃ生きていけない生き物なんだよ。だったら国家や勝手な正義なんてものに踊らされないようにだな、あらかじめくだらなくてどうでもよくて些細なこと、チョコエッグあたりにきっちり踊らされておく必要があるんだよ。それがおたくの本懐だ

『全学連と全共闘』

高木正幸『全学連と全共闘』(講談社現代新書 1985)を読む。
タイトル通り、60年の安保闘争の高揚、そして68~69年の全共闘運動を時には反権力の立場で、時には反代々木の立場から、新左翼へのシンパシーを素直に表明しながら語る。著者は全共闘運動というものを次のように定義する。全共闘的な思考形態を通過したものは、運動から離れても、物事を根源的に見ようとする全共闘的な発想が抜けることがないとどこかで聞いたことがあるが、私自身の物事の捉え方を省察するに頷かざるを得ない。

全共闘運動の、さらに大きな特色は、それまで学生運動をすすめてきた政治党派などの、何らかの勝利や獲得をめざす闘争方式よりも、闘争にかかわる個人の思想や行動に主体がおかれたという、理念の問題である。それは、党派や指導部によって組織されたものではなく、参加者一人一人が自らの決意と責任によって結集したという闘争形態と必然的に結びつくもので、学生が自らの存在について自ら問いかけ、自らがかかえる犯罪性、欺瞞性について暴露してゆくという論理である。「自己否定」あるいは「自己変革」という言葉が、このような考え方から全共闘運動の中で生まれた。それがさらに大学解体論、反大学論など、より深いテーマとして展開してゆくことになる。全共闘運動が、きわめて人間主義的な、思想的な運動であったとされるのは、以上のようなことのためである。

全共闘運動が、個々の大学の改良闘争、あるいは共通の政治目標を越えた、ラジカルで広範な運動となったのは、それが提起した人間の根底をゆさぶる理念の故にであり、全共闘がまったく姿を消したいまも、新左翼や住民運動など民衆のなかにその理念と急進的な運動のスタイルが残り続けているのは、その理念と行動の新鮮さと真実性の故にであろう。

『夢実現のための情報整理術』

中山庸子『夢実現のための情報整理術』(講談社+α文庫 2000)を読む。
女子高校の美術教師を経たという経験からか、日常のこまめな時間の有効的な活用や、メモをとる習慣、また話をうまく伝えたり、聞き出したりするなど、ちょっとした工夫が夢の実現に大切だと述べる。中学校の朝のホームルームでの小話のようなエッセーであった。

『これがマコトの「日本の大論点」』

大竹まこと、宮崎哲弥『これがマコトの「日本の大論点」』(講談社 2001)を読む。
「大論点」と名打ってはいるが、親父、子ども、女性、収入など身近な事柄を斜に構えて論じている。家族が一つのメルクとなっているのだが、次の宮崎哲弥氏の発言が、そうした家族にまつわるぎくしゃくした関係の分析として的を得ている。

夫婦というのは、本来赤の他人だった女と男が深くて暗い河を越えて、「家族になる」努力をするわけでしょ。これは、人間の共生関係を築くための基本的修練の場としてちょうどいいんですよね。それを子どもを媒介とした骨肉の縁、血縁に逃げてしまうから、この国はいつまでも他人同士が一緒に生きていくような、ちゃんとした「社会」にならないのだと思う。そういう理念はともかく実際的にも、夫婦がいい関係を築けていない家は子育てもうまくいってない場合が多いんですよね。