月別アーカイブ: 2007年7月

『石油神話』

夏の7冊目?
藤和彦『石油神話:時代は天然ガスへ』(文春新書 2001)の第1章だけを読む。
最近またガソリンの値段が上がり、来月より大幅な値上げがあるというニュースに接し、手に取ってみた。しかし、新書にも関わらず、経済産業省のエネルギー白書でも読んでいるような理路整然とした文章で、読むのに疲れてしまった。

要はOPECが石油市場を支配しているとか、メジャーが石油の価格をコントロールしているとか、石油そのものがすでに枯渇の秒読みに入ったといった「石油神話」は既に崩壊していると著者は述べる。そして石油は国家の「戦略商品」から、株式市場において先物取引やリスクヘッジなどの「金融商品」になってしまっているのが現状である。著者は石油の安定供給を目指すには、国家お任せでは無く、エネルギー市場の自由化や経済のグローバル化、規制緩和の流れの中で、商品としての石油の行方を見定め、やがては天然ガスにシフトを移していく方策を模索していくべきだと説く。

『「殺すな」と「共生」:大震災とともに考える』

odamakoto

夏の6冊目
小田実『「殺すな」と「共生」:大震災とともに考える』(岩波ジュニア新書 1995)を読む。
本日の東京新聞夕刊に著者である小田氏の訃報が載った。小田氏は東大大学院を経て、ハーバード大学院に留学し、後にヨーロッパやアジアを無銭旅行した体験記『何でも見てやろう』が空前のベストセラーになり、65年には「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、ベトナム反戦運動を展開し、後に憲法改正に反対する「9条の会」を結成する。また、95年には阪神大震災で被災したことから、被災者支援法制定を訴える運動を展開するなど、その人生はバラエティに富み、生涯反権力、市民運動を貫いた闘士である。
この著書では、阪神大震災での被災経験から、政治的に利用される「ボランティア」の危険性や行政の不備を糊塗する「危機管理」といった事柄へ疑問を呈し、そうしたデタラメがまかり通ってしまう日本社会そのものへの批判を読者に投げかける。少々古い本であるが、小田氏の主張がコンパクトにまとまっている良書である。

日本が敗戦によって植民地をすべて失ったことは、民主主義と平和主義の結合とあいまって、民主主義—それも理想的な民主主義の土台を得たことになります。しかし、それはあくまで土台でした。民主主義にしても、平和主義にしても、人びとのたえまない努力—ときには「たたかい」という激しいかたちをとる努力によってのみしか実現できないものだからです。

『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』

夏の5冊目
近藤康太郎『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』(講談社+α新書 2004)を読む。
国政や外交だけでなく生活のあらゆる物事を、何でも白黒、善悪の二元論で考えようとする単純なアメリカ人を揶揄しながら、実は同じ病に陥っている日本人を嗤うという構成になっている。イラク戦争を心から聖戦と信じ、「正義」「民主主義」という大義名分に思考停止状態に陥ってしまうのが、世界一の強国アメリカの真相である。しかし、著者はまだアメリカには「華氏911」でブッシュ大統領を激烈に批判したマイケルムーアや、反戦を訴えるロックバンドなどの活躍が保障されているだけまだ救いがあると述べる。一方、日本ではそうした批判を受け入れる土壌すらない。。。

アカデミー賞の半年前、日本でも北朝鮮による拉致問題の衝撃が、国中を覆った。新聞、雑誌、テレビが北朝鮮報道で埋め尽くされた。それから半年が過ぎ、イラク戦争が終わっても、その報道洪水は収まらなかった。いわゆる「悦び組」のワイドショー的な暴露や、どうみても検証不能な、あるいは検証作業を最初から放棄しているような、おどろおどろしいトンデモネタがあふれ、軍国おじさんたちの勇ましい放言が、これでもかと垂れ流された。そうして、そうした報道に少しでも異論を差しはさむなら、冷静な対応を呼びかけようものなら、まるで国賊扱いを受けた。北朝鮮シンパだと思われた。拉致を容認しているとさえ非難されかねなかった。戦時下のブッシュと同じように、あるいはそれ以上に、「批判できない聖域」ができあがった。テレビ、新聞、雑誌とも、その聖域には近寄らなかった。脳死状態の自主規制が、メディアを覆った。

「スポット派遣」

本日の東京新聞の特集に、「スポット派遣」労働者の雇用環境についての特集記事が載っていた。スポット派遣とは携帯電話などで前日に登録派遣会社から仕事を受け、倉庫作業などの日雇いの仕事をする業態のことである。ちょうど十数年前下落合にあった「ガクト」の携帯版といったところか。(分かる人には分かる)
東京新聞の解説によると、そうしたスポット派遣なるものは1999年の労働者派遣法で解禁され、全国で昼夜問わず1日7万回分の仕事が供給されているとのこと。しかし、雇用の不安定さや安い賃金から、漫画喫茶などで寝泊まりする「ネットカフェ難民」になる人びともおり、格差社会の象徴として問題視されているということだ。
先日読んだ三浦展著『下層社会』でも指摘されていたが、団塊ジュニア(現在36歳〜28歳くらい)世代は、学卒期がちょうど「失われた10年」の就職氷河期とぶつかっており、正社員として就職出来ないため、とりあえず派遣から就職していく者が多かった。私の友人にも不本意な就職をする者がいたが、未だに正社員として就職できず非常勤の仕事を続けている者も少なからずいる。

明後日に参院選を控えているが、格差を助長してきた自民党や、正社員や公務員の地位向上を訴える政党や候補者ではなく、不景気の煽りを食った底辺に位置する団塊ジュニア世代がきちんと「再チャレンジ」できる社会構造改革や施策のビジョンを具体的に持っているところに一票を投じたいと思う。

『武道の心で日常を生きる:身体脳を鍛えて、肚を据える』

夏の4冊目
宇城憲治『武道の心で日常を生きる:身体脳を鍛えて、肚を据える』(サンマーク出版 2005)を読む。
心道流空手師範宇城先生の武道論である。先月も類書を読んでおり、内容的には重なっている部分が多かったが、今年上半期に読んだ本の中で一番印象に残る本であった。身体で物を見、感じ、動くことの大切さを日本の伝統的文化に遡って説明をする。そして、「内面の力」といった神秘のベールを剥いで、身体で反応する工夫を分かりやすく例証する。格闘技や武道を志すものは一読して損はない。
宇城氏は筋肉やスピードに頼るスポーツ化された武道を否定し、身体の内的な力に根ざした真の武道について次のように定義する。少々長いが引用してみたい。

平和を求める武術稽古の本質は「絶対的世界」に身を置くことにあります。絶対的世界とは、競争原理を乗り越えた世界です。それは人に勝つより自分に勝つこと、すなわち自分自身との戦いであり、その究極は「相手との調和、自然との融合」の心にあります。
「武術を稽古していると理想が高くなる。一般的には理想が高くなると空想になってしまうが、武術をやっていると理想が本当の理想となり、それを実現しようとして努力するようになる。そういうエネルギーが湧いてくる」これは(師範の)座波先生の言葉です。稽古を重ねるうちに、目指す山の高さを知り、いかにその頂上が高いところにあっても、底に向かおうとするエネルギーが湧いてきます。それは最高峰を目指して山を征服しようとする試みとも違います。
武道の山とは、頂上に近づけばさらに高くなっていくような山です。その山は、自分自身のあり方でいくらでも高くなっていきます。目的は頂上に達することではなく、山の大きさ、登る山を大きくすることに本質があります。武術空手の稽古はそれを可能にします。ここに武術空手の魅力があるのです。その生き方が武道ということです。

そして武道を日常に生かす点については次の軽妙な言葉で展開している。

人生には三つの坂がある、といいます。一つは「登り坂」、そして「下り坂」、もう一つは「まさか」です。人生においては、しばしば「まさか」が直面します。そのとき慌てず、動じず、肚を据えて取り組むことができるか。それが人生を大きく左右します。その人の器といってもいいでしょう。
武道はこの「まさか」に直面して動じない、確固とした自分を磨き上げてくれるものがあります。

他にも様々な場面で使えそうな警句である。教員として是非暗記しておきたい。