月別アーカイブ: 2006年5月

「寓意の詩人としての陶淵明」

本日の午後、研修で埼玉県桶川市にあるさいたま文学館に出掛けた。
埼玉県高等学校国語科教育研究会の総会と陶淵明に関する講演を聴いた後、一人でぶらりと地下にある文学館の展示を見て回った。埼玉出身の文学者の紹介のパネルや遺品が展示されていた。埼玉出身の作家というふれこみで、田山花袋の「田舎教師」やら中島敦に関する展示が何点かあったが、彼らとて埼玉生まれではなく、埼玉にちなんだ作品がほんの数点あるだけである。つくづく埼玉は文学不毛の地だと感じた。
また、秩父の文学についての企画展示があったが、秩父にゆかりの深い作家として宮沢賢治(?)や斎藤茂吉(!)が紹介されていた。宮沢賢治に至っては秩父に旅行に来たことがあるだけなのに。。。あまりのこじつけのひどさに驚きを通り越してあきれてしまった。

講演会メモ
「寓意の詩人としての陶淵明」

文教大学日本文学科 沢口勝

陶淵明
東晋の詩人。田園を愛し、酒を友とする生活を送り、飾らぬ表現の中に深い思想のこもった詩を残した。代表作「飲酒」「桃花源記」「五柳先生伝」「帰去来辞」「田園将に蕪れんとす、胡ぞ帰らざる」
桃花源記
武陵の漁夫が道に迷って、桃林の奥にある村里に入り込む。そこは秦の乱を避けた者の子孫が世の変遷を知ることなく、平和で裕福な生活を楽しんでいる仙境であった。歓待されて帰り、また尋ねようとしたが、見つからなかったという内容。
「隠者文学」
俗世界から離れ、世捨人の生活を送る隠遁者によって書かれた文学。

日本では、西行、鴨長明、兼行法師などが代表とされる。

陶淵明~積極的に田園を目指す
鴨長明~消極的な引きこもり的生活

『朝鮮総連』

金賛汀『朝鮮総連』(新潮新書 2004)を読む。
先日総連民団の歴史的和解の文字が新聞紙上を踊った。総連に批判的な作家による著書であるが、民団と合併しなくてはどうにも立ち行かなくなった総連の実態がかいま見えてきた。総連は、戦後数年、日本共産党と共同路線を歩んでいたが、徐々に金日成の主体思想という民族主義的傾向を強め、日共との関係も疎遠なものになっていった。そして、日本国内では左翼勢力の仮面を被りながら、陰ではパチンコ産業諸々に手を染めた揚げ句、大きな失敗を招き、同胞のビジネスの絆すらずたずたにしてきた。
日本国内での共生を指向する中で、朝鮮半島の統一に向けての行動が期待される。

『当たり前のことができる人、できない人』

松永一雄『当たり前のことができる人、できない人』(文香社 1998)を読む。
日立製作所、日立ソフトウェアにおいて教育部門を担当していた著者が、ビジネスにおける身の振る舞い方について、「飲む」「打つ」「買う」から始まって、「貯める」「休む」「辞める」などの社会人としての最低限のルール、さらに「報告する」「討議する」「確認する」など会社内におけるイロハまで、懇切丁寧にアドバイスを述べる。
他の人との積極的な関わりを避けるドライ人間関係と責任をうやむやにする「なあなあ」の職務関係に包まれた独特な雰囲気漂う日本の会社組織におけるあるべきビジネスマナーを説く。この手の本にありがちな高所からの道徳論ではなく、ビジネスマンとして失敗を重ねてきた著者ならではの経験に裏付けられた「使える」助言が満載である。

読み進めながら、次の一節が印象に残った。困難な仕事を困難なまま抱えるのではなく、誰でも取り組めるように「ルーティンワーク化」、「標準化」することが「できる」ビジネスマンの心得だというのだ。私自身、このような仕事分担が苦手で過去多々失敗してきたことを苦々しく思い出した次第である。

よりよい仕事をするためには、大いに休もう。ただし、休むには資格がいる。何事によらず資格のない者が権利だけをふりまわすと、周囲に迷惑という現象が起きる。人に迷惑をかけていては、よい仕事はできない。
その資格とは、「自分が不在でも、仕事がすすめられるシカケをつくっておくこと」に尽きる。ファイルや資料、他部門ないしは顧客との約束などが、他の人でも代行できるよう、何がどこにあり、いつ何を行なわなければならないか、等々をわかるようにしておくことなのだ。
本人がいないと仕事が動かないというのは、決して君の重要性を意味してはいない。それは業務の私物化であり、組織にとってはマイナスである。
組織の中で「できる」といわれる人は、自分の仕事は下に任せられるようにシカケをつくったうえで、上位の仕事に目を向けているものである。

『うまい!と言われる文章の技術』

轡田隆史『うまい!と言われる文章の技術』(三笠書房 1998)を読む。
朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」を8年に亙って書き続けた著者による文章読本である。ただ情景を述べるだけで中身のない文章や一本調子でつまらない文章をちょっとした構成や表現の工夫で見違えるほどの名文になる実例が分かりやすく紹介されている。特に小論文において、「〜思う」が連続してしまうものに対してのアドバイスが印象に残った。

言葉を選ばなければ、人間としての己の心の動きを多面的に描くことはできない。「思う」のひとことだけでは、思考は同じ場所を堂々めぐりするだけで、ぐいぐいと上昇してはゆかない。もののとらえ方、考え方そのものが、乏しい語彙の中に閉じ込められてしまって一面的になり、自由に飛翔してゆかないものである。文章を書いて、論理がどうも一本調子で展開してゆかないと感じたら、心の働きを示す部分の言葉を選び直してみよう。
先刻の「心情を推し量った」を「心情を思いやった」と言いかえてみる。「功罪を考えた」を「功罪を分析した」とすれば、「考えた」と書いただけよりももっと積極的であり、心の働きを次の段階に押し進めてゆく弾みとなるにちがいない。考えの内容そのものが言葉を選択する面もある一方で、選択した言葉そのものが、考えを前へ前へと押し進めてもゆくのである。
まことに、言葉の力は偉大である。

『ちょっとした外国語の覚え方』

新名美次『ちょっとした外国語の覚え方』(講談社 1995)を読む。
北大の医学部を出てアメリカで眼科医として開業している自身の経歴を披露した上で、日本人の英語の勉強スタイルを批判し、ネイティブな環境で英語を学ぶことを説く。
はにかみ屋で消極的な性格の日本人では外国語を学べないなど、ほとんど読むに値しないような中学生向けの国際文化論が展開される。しかし、ラテン語を一度は学んでみることで、フランス語やスペイン語、ドイツ語などの他のラテン語系言語との共通性が具体的に理解できるという提言はなるほどと思った。

英語をマスターした人にとっては、ラテン語の単語は、とても覚えやすい。また、ラテン語を学ぶことは、知的刺激や知的好奇心を満たし、外国語の勉強を飽きずに続けられると思う。
ラテン語は名詞、形容詞の格の変化が多いので、本気で学び始めるとけっこう時間がかかる。しかし、入門程度の学習をしただけでも、他のロマンス語の学習の助けになる。