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『科学はどこまでいくのか』

池田清彦『科学はどこまでいくのか』(筑摩書房 1995)をパラパラと読む。
執筆当時は山梨大学の教授を務めており、生物学を専門とする著者が、自然科学と人間の関係性について分かりやすく説明している。科学というよりも哲学書である。
本筋の議論とは離れるが、気になったので引用しておきたい。

今から約2500年ほど前に、仏教の開祖、釈迦は80歳の高齢で亡くなった。死の直前に、釈迦は弟子のアーナンダに請われて、最後の説法をする。
「アーナンダよ、なんじはここに、自らを灯明とし、自らを依り処とし、他人を依り処とせず、法を灯明とし、法を拠り所とし、他を拠り処とせずして住するがよい」
釈迦の遺言とも言うべきこのコトバは、他の宗教の教義に比べるとかなり異様である。たとえば、普通の宗教、とくに一神教であれば、神の教えにのみ従って生きよ、とか言いそうなものである。
自分と法だけに従って生きよ、とはどういうことか。法律に違反しないならば、自分勝手に生きてよい、と言っているわけではなさそうだ。
問題となるのは、法とは何かということである。(中略)法は真理であるととりあえず考えてみよう。仏教にはキリスト教にみられるような、神による創世記といった話はない。キリスト教のような一神教においては、この世界も世界の真実も、ともに神によって与えられているものである。すなわち真理はア・プリオリに(先験的に、あらかじめ)ある。仏教の法はア・プリオリに与えられているものではない。
普通の宗教の教義は、こまごまとした記述(教典)にって与えられているものである。ここでは真理は学ぶことによって得られる。しかし、仏教の法は、基本的に学ぶものではなく、悟るものである。釈迦の遺言は、「真理は自分で悟れ」と言っているように私には聞こえる。残念ながら、現在の日本の大部分の仏教は制度化され、真理は学ぶものになっているが。

釈迦は若い頃、激しい苦行をしたと、伝えられる。(中略)伝えられるところによれば、言語を絶する苦行にもかかわらず、釈迦は死を超えて生きる道を見出すことはできなかったという。
苦行を終えて河から上がってきた瀕死の釈迦は、村娘のスジャータのさし出す乳粥を食べた。その時釈迦は忽然として悟るのである。どんな偉そうなことを言ってみても、人間は大いなる自然に生かされている存在にすぎないのではないかと。自我だ俺だと騒いでみても、自我は自分が生まれることも、老いることも、死ぬことも何一つ決定することはできないではないか。私の体は自然そのものではないか。
乳粥を食べて、生気が戻った体は、牛の乳により生かされており、牛は草により生かされており、草は太陽と水という天地の恵みにより生かされている。人間は自然という大いなる生命体の一部であり、自我が滅しても恐れることはなにもない。
仏教でいちばん重要な無我という思想は、このようにして生まれたのではないかと、私は勝手に思っている。

仏教はこのあと様々な分派に分かれ、様々な教義が作られてゆくが、釈迦の思想として今ひとつ重要なのは、このような自然観を、教義を通してではなく、すなわち人に学ぶのではなく、自分の体験を通して悟れ、と言っているところにある。