月別アーカイブ: 2002年12月

『マイノリティレポート』

本日トムクルーズ主演・スピールバーグ監督の『マイノリティレポート』(20世紀フォックス 2002)を観に行った。
『ミッションインポッシブル』と重なっている場面もあったが、伏線が何本もあり最後まで展開が読めず面白かった。情報ネットワークのデジタルな社会とアナログな人間感情の矛盾というシンプルなテーマのSF映画なのだが、市民のプライベート情報のデータ化や推定有罪に基づく予防社会など、現在の社会状況をうまく延長させた世界が展開されている点が不気味に感じて仕方がなかった。ジョージオーウェルの『1984』の現代版と捉えると、興味深い味わい方ができるはずである。

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『鉄道員』

浅田次郎の短編集『鉄道員』(集英社 1997)を近所のファミレスで読んだ。
途中人目もはばからず涙ぐみそうになった。数年前、高倉健と広末涼子主演の映画の宣伝をテレビで見た際は長編ドラマのようなイメージがあったが、原作は単行本で40ページほどの短編である。かいつまんで言えば、廃線間近の路線の駅長の家族と国鉄の仕事に板挟みになった過去の回想シーンを交えた物語に過ぎないのだが、一つ一つの台詞が大変重いので紙幅以上のドラマが凝縮されて展開される。台詞の少なさという点で、高倉健を駅長役にしたのは妙案であろう。それにしても小説の方は、ちょうど家族と仕事というモチーフといい、北海道という舞台といい、短編ならではのはしょった展開の仕方といい、有島武郎の『小さき者へ』とそっくりである。しかし『鉄道員』は国労闘争団の悲哀とも重なってくるのでより感動が深い。

『物質の究極は何だろうか』

本間三郎『物質の究極は何だろうか』(講談社現代新書 1989)を読む。
少し古い本であるが、基本的な知識の確認に役立った。原子の大きさをを東京ドームにたとえると、陽子や中性子は卵くらいの大きさであり、電子は米粒の大きさであるという。高校時代の化学の授業の板書での、バスケットボール大の陽子や、野球ボール大の電子のイメージが強かったので、改めて素粒子のスケールに驚かされる。また逆にいかに黒板に白墨というスタイルが科学の驚異を捨象してしまうのかとつくづく実感せざるを得なかった。閑話休題、原子内部の「真空」や、陽子内部のクオーク・ニュートリノといった「微小」な単位を追い求める実験が、ビッグバンやブラックホールといった「無限」なものの解明につながるというのは、わかっていたことであるが改めて興味深い。展開上、デモクリトスのアトム論にこだわり過ぎていて少々大意をつかみにくいが、反粒子や反物質といった「無」が現代物理学の大きな焦点であるというのは面白かった。あとがきで著者は以下のように結論付ける。

われわれはわれわれのまわりをとりまく自然界という「有」の世界の中に永遠不変な究極像を求めてきた。しかし、われわれの自然界は究極的には「無」が自分自身の力によって「無」からつくり上げ発展させたものであるという考えに到達してしまった。とすると、自然界という「有」は、「無」のあらわれの一つの形態であり、あり方にすぎないということになってしまう。そして「無」こそ、時間や空間を超越した存在であり、これらすべてを生み出した、いうならば本書の初めで述べた意味での「神」と呼んでよいものとなるのである。

ジョン・ロールズ

昨日の東京新聞の夕刊に、先月亡くなったジョン・ロールズについての日本での扱われ方について、宮崎哲弥氏の分かりやすい解説が載っていた。ロールズは国家公共体は何故、社会的弱者に保護や援助の手を差し伸べる義務があるのかという謎を解き明かした20世紀を代表する政治哲学者である。彼は社会主義とは異なる思想に依拠し福祉の重実を唱えた。ロールズの説を簡単に述べると次のようなものになる。「社会の最も恵まれない境遇にある者の福祉は最大限に改善されなくてはならない。何故なら、自由で機会の平等が保証された社会において、そうした地位は偶有的なものにすぎず、いつ誰が最悪の境涯に立たされたとしてもおかしくない。そのリスクを勘案すれば論理必然的に、最も不遇な者の福祉を増進する社会制度が望ましいということになる。」

民主党の分裂ごたごた騒動を見るにつけ、リベラリズムに関する議論の成熟の必要性を感じる。本来は「個人と個人、共同体と共同体のあいだの紛争や軋轢を一段上から調停する公共性原理としての性格を有する」と考えられるリベラリズムを、防衛や経済・金融制度にうまく織り込んで具現化させていく政党が現在の日本の政治に求められることはいうまでもないだろう。私自身は支持しないが、民主主義政党を標榜する民主党が野党第一党としての小泉政権に対する批判能力を持つことが短期的には必要であろう。

『娘の学校同窓会』

なだいなだ『娘の学校同窓会』(集英社文庫 1988)を読む。
なだいなだというのはペンネームで、スペイン語のnada y nada(なにもなくて、なにもないの意味)からとられたそうだ。昔から名前は知っていたが、著作を読むのは初めてだ。フランス留学の経験から日本の社会・教育を批判的に眺めた軽いエッセーである。正直面白いものではなかったが、彼の暖かい人柄は充分に伝わってきた。