自然界に生きる動植物を、ヒトとヒト以外に区別して捉え、ヒトが自然を支配することに異議を持っているようですね。自然淘汰、適者生存はダーウィンの進化論に端を発する議論ですが、ダーウィン自身も自説である「進化論」はヒトという生物には当てはまらないと述べています。いやそれ以前に聖書の『創世記」の中に禁断の果実を食べたアダムとイブがエデンの園を追放されている記述が見られますし、古代のインドの学問においてもヒトは他の動物とは明らかに異なるという研究がなされています。
私は下記の文章を拝見しながら、宮崎駿原作マンガ版「風の谷のナウシカ」(徳間書店)を思い出しました。まだ読んでいなかったら是非おすすめします。
映画版「風の谷〜」は、自然を利用し破壊するトルメキア軍と自然と共に生きることを目指す風の谷の民、という二項対立的な「分かりやすい」図式で世界観が構成されていました。そして腐界が実は自然再生のために汚染された土壌を浄化しているのだと知ったナウシカが、腐界との共存を果たしていくところで話が終わっていました。
マンガ版「風の谷〜」は全7刊出ていますが、3刊目辺りから大きく映画版と話がずれていきます。トルメキア軍と土鬼軍の対立に風の谷が巻き込まれる点は映画と同じですが、その後腐界が粘菌化して勢いを増し、世界の3分の2を覆う「大海嘯」となって表れてきます。映画版では自然の守り神のように描かれていた王蟲はその粘菌が瘴気を発芽するための苗床であり、しかもこうした世界の滅亡が実は仕組まれたものなのだというのが後半部に入って徐々に明らかになっていきます。旧世界の人間が、醜い戦争に明け暮れる人間自身、そして汚染された自然界の全てを新しい、平和な清浄な緑溢れる世界に造り変えるために用意したものが王蟲であり巨神兵であり、腐界であったのです。その中ではナウシカは汚染された旧世界の人間であり、滅亡されなくてはいけない存在なのです。最終章近くになると、自然と人間の対立ではなく、汚濁と清浄の対立が物語世界の大きなテーマになっていきます。汚濁側の人間の運命を背負ったナウシカは、清浄な世界を築きあげようとしていくシュワの墓場を巨神兵と協力して破壊してしまいます。「希望の敵」と称せられたナウシカとクシャナが共にまた「汚濁された」世界で生きていくというところで話は終わっています。後半部はかなり難解な構成になっていて解釈は様々分かれます。私は、人間も自然も双方すでに汚染されたものであり、滅亡に向かっていることは免れないものかもしれないが、しかし現況を出発点に少しでも滅亡を遅らせる努力をしていこうというのが宮崎監督が伝えたかったテーマであると考えています。
マンガ版「風の谷〜」を読むと、同じ宮崎駿監督の映画『もののけ姫』の主題も分かってきます。現在の自然は完全な自然ではなく、森の司神であるデイダラボッチが殺され、人間の「人為」化のもとにおかれた自然である。しかしそうした自然であるからこそ人間との共生が実現し、人間がより大切に「作為」化しなくてはいけないものなのです。『ナウシカ』が少々悲観的な形で終わっていたのに対し、『もののけ姫』では絶望を前提としつつもかなり前向きに自然との共生を謳っていたと考えます。
はたして答えになっていたでしょうか。最近は書類が忙しいので、満足に答えることは出来ず申し訳ない。読みにくい部分については来年2月に入ってからでも語りましょう。