土屋愛寿『生きた地球をめぐる』(岩波ジュニア新書 2009)を読む。
日本地学教育学会の一員として、1000を超える世界の都市を訪れた著者が、南極点や北極点を含む世界中の地学に関する名所を紹介する。ギアナ高地に始まり、アフリカ大地溝帯、アイスランド、イエローストーンなどの内的営力によって生じた奇観や、ナイアガラ滝やソグネ・フィヨルド、秋芳洞、アタカマ砂漠などの外的営力によって生まれた景観などを、訪れた際のちょっとした思い出とともに語る。200を超える世界自然遺産の全て紹介し尽くしたのかとボリュームである。
月別アーカイブ: 2021年8月
「アフガン難民 トルコに続々」
本日の東新聞朝刊より。
イスラム主義組織タリバンが首都を制圧し、旧政府組織との内戦や自爆テロ、米国の報復攻撃などが続くアフガニスタンの難民が、トルコに密入国しているとの内容である。トルコは西アジアのイスラム国の中核を担っており治安も良い。エルドアン大統領就任後、保守的政策が進んではいるが、宗教的にも文化的にも寛容な国である。
また、地図を確認すれば分かるが、EUに加盟しているギリシャと国境を接している。授業の中でも触れたが、EU域内ではシェンゲン協定により国境の管理が撤廃され、パスポートの提示も不要となっている。そのため、数年前シリア内戦が激しかった頃は、トルコを経由してギリシアに密入国するシリア難民が100万人を超える事態となった。
また、トルコとギリシアの間のエーゲ海はアフリカプレートユーラシアプレートがぶつかる「狭まる境界」にある。そのため、エーゲ海には2500もの火山島が密集する多島海となっている。エーゲ海の島を繋いで海からギリシアに密入国する難民も後を絶たない。ちなみにアルプス山脈やイランのザクロス山脈、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴヴィナに跨るディナルアルプスなどはプレート同士がぶつかることによって隆起した褶曲山脈である。
アフガン難民もトルコから陸路もしくは海路を経由してEUを目指しており、トルコとEUの関係もまたこじれてきそうだ。
「米、ベトナムにコロナ対策強化」
「食料自給率 最低37%」
本日の東京新聞朝刊に、農林水産省が発表した2020年度の食料自給率に関する記事が掲載されていた。掲載されているグラフにカロリーベースと生産額ベースの2つが並ぶ。カロリーベースとは農林水産省のホームページによると、次のように説明される。
カロリーベース総合食料自給率は、基礎的な栄養価であるエネルギー(カロリー)に着目して、国民に供給される熱量(総供給熱量)に対する国内生産の割合を示す指標です。
カロリーベース総合食料自給率(令和2年度)
=1人1日当たり国産供給熱量(843kcal)/1人1日当たり供給熱量(2,269kcal)
=37%生産額ベースは以下のとおりとなっている。
生産額ベース総合食料自給率は、経済的価値に着目して、国民に供給される食料の生産額(食料の国内消費仕向額)に対する国内生産の割合を示す指標です。
生産額ベース総合食料自給率(令和2年度)
=食料の国内生産額(10.4兆円)/食料の国内消費仕向額(15.4兆円)
=67%
カロリーベースだと、熱量の多い穀物や肉類、砂糖、油脂などの輸入に頼っている産物の割合が高くなってしまうので、自給率は下がっていく。一方で生産額ベースでは、野菜や果実などの動向が見えてくる。日本の農業を支えていく上でも米を大切にしろと伝えていきたい。
『科学はどこまでいくのか』
池田清彦『科学はどこまでいくのか』(筑摩書房 1995)をパラパラと読む。
執筆当時は山梨大学の教授を務めており、生物学を専門とする著者が、自然科学と人間の関係性について分かりやすく説明している。科学というよりも哲学書である。
本筋の議論とは離れるが、気になったので引用しておきたい。
今から約2500年ほど前に、仏教の開祖、釈迦は80歳の高齢で亡くなった。死の直前に、釈迦は弟子のアーナンダに請われて、最後の説法をする。
「アーナンダよ、なんじはここに、自らを灯明とし、自らを依り処とし、他人を依り処とせず、法を灯明とし、法を拠り所とし、他を拠り処とせずして住するがよい」
釈迦の遺言とも言うべきこのコトバは、他の宗教の教義に比べるとかなり異様である。たとえば、普通の宗教、とくに一神教であれば、神の教えにのみ従って生きよ、とか言いそうなものである。
自分と法だけに従って生きよ、とはどういうことか。法律に違反しないならば、自分勝手に生きてよい、と言っているわけではなさそうだ。
問題となるのは、法とは何かということである。(中略)法は真理であるととりあえず考えてみよう。仏教にはキリスト教にみられるような、神による創世記といった話はない。キリスト教のような一神教においては、この世界も世界の真実も、ともに神によって与えられているものである。すなわち真理はア・プリオリに(先験的に、あらかじめ)ある。仏教の法はア・プリオリに与えられているものではない。
普通の宗教の教義は、こまごまとした記述(教典)にって与えられているものである。ここでは真理は学ぶことによって得られる。しかし、仏教の法は、基本的に学ぶものではなく、悟るものである。釈迦の遺言は、「真理は自分で悟れ」と言っているように私には聞こえる。残念ながら、現在の日本の大部分の仏教は制度化され、真理は学ぶものになっているが。
釈迦は若い頃、激しい苦行をしたと、伝えられる。(中略)伝えられるところによれば、言語を絶する苦行にもかかわらず、釈迦は死を超えて生きる道を見出すことはできなかったという。
苦行を終えて河から上がってきた瀕死の釈迦は、村娘のスジャータのさし出す乳粥を食べた。その時釈迦は忽然として悟るのである。どんな偉そうなことを言ってみても、人間は大いなる自然に生かされている存在にすぎないのではないかと。自我だ俺だと騒いでみても、自我は自分が生まれることも、老いることも、死ぬことも何一つ決定することはできないではないか。私の体は自然そのものではないか。
乳粥を食べて、生気が戻った体は、牛の乳により生かされており、牛は草により生かされており、草は太陽と水という天地の恵みにより生かされている。人間は自然という大いなる生命体の一部であり、自我が滅しても恐れることはなにもない。
仏教でいちばん重要な無我という思想は、このようにして生まれたのではないかと、私は勝手に思っている。
仏教はこのあと様々な分派に分かれ、様々な教義が作られてゆくが、釈迦の思想として今ひとつ重要なのは、このような自然観を、教義を通してではなく、すなわち人に学ぶのではなく、自分の体験を通して悟れ、と言っているところにある。