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「原発と基地の欺瞞」

本日の東京新聞朝刊に、東京大学大学院教授の高橋哲哉氏のインタビュー記事が大きくとりあげられていた。高橋氏の専門は西洋哲学であるが、福島と沖縄、ともに「犠牲のシステム」に組み込まれていると述べる。高橋氏は靖国神社について次のように述べる。

宗教では犠牲という観念が非常に大きい。神への供え物として動物、場合によっては人間の肉体がささげられた。宗教が社会から退いた後も、国家が国民に犠牲を要求する。日本の場合、靖国(神社)がその典型だった。

そして、敗戦後も犠牲のシステムは変わらず、その象徴が沖縄だった。そして、今回、その犠牲のシステムは沖縄だけでなく、原発推進政策の構造にまで及んでいることが白日の下にさらされた。

原発は、経済分野における犠牲のシステムだ。沖縄の米軍基地は沖縄県民が誘致して存在しているわけではない。福祉などの原発立地地域は一応、地元が誘致する形を取っている。この違いを無視することはできないが、類似した犠牲のシステムが見て取れる。

高橋氏は、犠牲のシステムを次のように定義する。

ある者たちの利益が、他の者たちの生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされる者の犠牲なしに生み出されないし、維持されない。この犠牲は通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業など)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。

では、福島事故の責任を負うべき「犠牲にする者」は誰なのか。高橋氏は次のように述べる。

一義的な責任は原子力ムラの人たちにある。中央の政治家と官僚、東電、学者たちだ。なかでも最大の責任は東電の幹部にあるでしょう。この人たちの責任が追求されていない。

原発推進の責任を問われるべき人が事故後、(政府の審議会などで)問う側になっている。原発の安全性を宣伝してきた人たちは、身を引くべきだ。

原発にはさまざまな人々が関わってきた。原発の電力を享受してきた都市部の人間も、犠牲にする側に立ってきた。避難している福島の人たちの一部も、経済的な苦境を脱するためとはいえ、原発を誘致した責任がある。県レベルで原発を推進してきた知事や原発周辺自治体の首長、議員の責任も否定できない。

犠牲には何らかの補償が伴うが、高橋氏は次のようにまとめる。

旧日本軍の犠牲者は、靖国神社に英霊として祭られ、遺族年金などで経済的に慰謝された。沖縄や福島では、理念的には『安全保障・国のエネルギーに貢献している』と思わされ、経済的には、交付金・補助金による利益誘導が行われた。この構造は靖国と変わらない。

そして最後に次のように述べる。

沖縄も福島も国民的規模で可視化された。もはや『自分は知らなかった』では済まされない。犠牲のシステムを維持するのであれば、だれが犠牲を負うのかをはっきり言わなければ無責任だ。だれかに犠牲を押しつけ、自分たちだけが利益を享受するのか。それができない以上、原発と米軍基地自体を見直すしかない。

上手く糊塗されてしまう「犠牲」というシステムは、「お客のため」「市民のため」「家族のため」というお題目で、日本社会の隅々まで蔓延している。そうした構造まで明らかにした上で、問題を見ていくことが必要である。

『バカはバカなりに』

細田吉郎『バカはバカなりに』(ごま書房 2006)を読む。
中卒でニートややくざまで経験した著者が、心機一転20代半ばで事業主となり、ビジネスの面白さや苦さを余すところなく語るビジネス書となっている。著者は埼玉出身で、高校を1日半で中退し、様々なアルバイトを経験する中で商売の面白さを感じ、21歳の若さで中古車販売会社を成立し、執筆当時は順調に会社を軌道に乗せている。

手にとった時は、単なる自費出版の自叙伝かと思ったが、自身の会社を興すまでの経緯はほとんど省かれ、社長となった時の心構えや作法、人付き合い金付き合いについて丁寧に語られている。現在の私自身の境遇とは全く異なるものだったので、逆に気楽な気持ちで楽しく読むことができた。

『それぞれの芥川賞 直木賞』

豊田健次『それぞれの芥川賞 直木賞』(文春新書 2004)を読む。
著者は、長らく「週刊文春」「文學界」「オール讀物」などの編集長を担当し、多くの新人作家や売れっ子作家を手がけた敏腕の編集者である。その著者が、第70回(1973年)芥川賞を受賞した野呂邦暢氏と、第83回(1980年)直木賞を受賞した向田邦子さんの二人の担当者として、受賞までの二人三脚の歩みがまとめられている。
しかし、当時の手紙や書評をだだ連ねただけで、現役当時の思い出を振り返るといった社内報の穴埋めの連載のような中身であった。時間の無駄かと思ったが、読みやすい文章だったので、一気に読んでしまった。
この本にめげず、今冬、少し芥川賞作家、直木賞作家の作品に触れてみたいと思う。

『ALWAYS 三丁目の夕日 '64』

always64_movie

久しぶりに子どもをお風呂に入れて、妻の「赦し」を得て、ララガーデンへ映画を観に出かけた。
今週は多忙を極めており、深々とした映画館の観客席に一人腰を沈めるという心地よさを改めて実感した。

山崎貴監督、吉岡秀隆・堀北真希主演『ALWAYS 三丁目の夕日 ’64』(2012 東宝)を観た。
前作の内容はほとんど忘れてしまっていたが、出演者の顔ぶれはほとんど変わらず、時代設定もそのままだったので、始まって5分ですんなりと物語世界に入ることができた。前作同様、誰しもが上を目指す世知辛い高度成長期のどたばたと、昔ながらのお互い助け助けられる濃密な人間関係のどたばたが見事にマッチしていた。

ちょうど前作から数年後の内容を扱っており、出演者自身の成長がそのままスクリーンの登場人物の成長に反映されていたように思う。それにしても主役を務めた吉岡秀隆さんの演技は素晴らしい。彼の顔、声、表情すべてが観客をひきつけて止まない。テレビドラマ『北の国から』と同様、出演者の成長をともに楽しむ息の長い映画に育ってほしい。

『若者の法則』

香山リカ『若者の法則』(岩波新書 2002)を読む。
「いまどきの若者は……」という愚痴は、はるか古来より「大人」の口を出たセリフである。しかし、携帯電話やインターネットの普及でこれまでは大きく異なった「若者」が出現してきたと著者は指摘する。

著者は最近の若者を、「確かな自分をつかみたい」「どこかでだれかとつながりたい」「まず見かけや形で示してほしい」「関係ないことまでかまっちゃいられない」「似たものどうしでなごみたい」「いつかはリスペクトしたい、されたい」の6つの法則で説明する。どれも著者の大学教員としての実体験に基づくものであり、「なるほど」と頷いてしまうものが多かった。
その中で、「先生」という項目が面白かった。著書の内容を以下少しまとめてみた。

今の若者は学校の先生などに関心がないのかと言うと、そんなことはなく、先生に関するウワサ話は大好きであるという。「○○先生っておしゃれだよね」とか、「あの先生、授業のときってけっこう笑顔がかわいいよね」など、何気ないウワサを延々と語り合っては、笑ったりびっくりしたりしている。若者にとって「先生」というのは、自分と密接にして特殊な関係にある。先生は自分に何かを定期的に教えてくれる大人であり、さらには成績や進級、卒業などを決定する権利を持つ大人である。今の若者たちにとって、そういう関係性のはっきりした大人というのは、決して多くはない。親戚づき合いも減り、町内会長や近所のご意見番といった、役割の明確な大人も身のまわりから姿を消しつつある。親でさえ、「友だち親子」と言われるように自分と地続きの人間になってしまった。

精神医学の中でも、これを「世代間境界の喪失」と呼んで問題視する動きがあるようだが、「だれでも友だち」という人間関係は、一見、風通しがよいものに見えるが、実は若者たちはその中で、自分をうまく位置づけることができず、いつまでも自分が何者かを定められずにいるのではないか、というのだ。そういう意味で、関係が見やすくはっきりしている先生というのは、若者にとっては分かりやすく安心できる存在なのだろう。

もちろん、当の先生たちにとっては、学生が授業や研究の内容についてではなく、自分のウワサ話を語っているというのはあまり愉快ではないだろう。ただ彼らはそうやって、自分と密接な関係があり、ちょっとだけ自分に影響力を持つ大人について語る喜びを満たしているのである。「先生のくせに朝までカラオケに行っちゃったらしいよ」などと、「○○のくせに」というフレーズを堂々と使ってもよい大人は、もしかしたら彼らには先生しかいないのかもしれないのだ。

だから先生というものは、十分に若者たちがウワサの対象にしたくなるようなユニークな言動やファッションをして見せる必要も時にはあると思う。もちろん自分が持っているちょっとした力を悪用したセクハラなど、ダークなウワサになるようなことをするのは言語道断。そして、「あの先生ってさ」とチャーミングなウワサが十分、語られるような先生なら、若者はその授業や研究にも関心を持ってくれるはずなのだ。今の若者にとっては数少ない関係性のはっきりした大人である先生。その役割は意外に大きいが、それを自覚している先生は残念ながらあまり多くない。