月別アーカイブ: 2020年3月

『古都』

川端康成『古都』(新潮文庫 1962)を少しだけ読む。
あとがきと解説を読んだだけだが、1961年の10月から62年の1月にかけて朝日新聞に連載され、京都の年中行事や観光名所を織り交ぜた小説となっている。
川端康成の作品を手にするのはこれが最後であろう。

『T・Pぼん』

藤子不二雄『T・Pぼん』(潮出版社 1979)全5巻を読む。
小学生の頃に購入してずっと所有し続けた漫画である。よく残っていたものである。
小学校3、4年生の頃に読んでいたもので、何度も読み返して世界史への興味を膨らませた思い出がある。歴史上の名前もない人物に焦点をあてながら、歴史の繋がりを感じさせてくれる作品となっている。ドラマ「西遊記」で三蔵法師役を演じた夏目雅子さんの名前もこの漫画で知った。

高校時代に世界史を選択したが、多分にこの漫画の影響が強い。4月以降の授業の予習に先立ち、自分の原点を確認することができた。さあ、これからの勉強を楽しんでいきたい。

『いじわるペニス

内藤みか『いじわるペニス』(新潮社 2004)を読む。
刊行当時流行った「ケータイ小説」に括られる作品である。しかし、過激なベッドシーンの合間に、ゲイを相手にしているウリセンボーイに「恋愛」を求めてしまう主人公の女性のアイデンティティの問題が描かれる。

由紀哉と私。
売る男と買う女。
本当なら、たった一晩だけの後腐れない関係のはずなのに、私が「恋愛」を彼に望んでしまっていたのだ。
もともとないところに無理矢理「愛情」とか「信頼」とかを置こうとしたから、たくさんの歪みができた。
由紀哉の冷たさが不安で哀しくて、だからわたしはセックスに望みを集中させていた。
いやというほど突かれまくれば「愛されている」と錯覚することができる。
白くて熱いどろりとしたものを私の下腹部に流し込んでくれれば、それが彼の愛だと女の身体は勝手に解釈する。セックスの悦びは、愛されていないかもしれないという不安を一気に消してくれる。だから、私は由紀哉としたかったのだ。
ほんとうは。
セックスなんてなくてもよかった。由紀哉が、私を心底愛してくれているのであれば。
由紀哉が、愛おしそうな瞳で私を見つめてくれていれば、時々、宝物に触れるような手つきで、そっと私の髪に触れてきてくれれば。
本当は、それだけで、充分私は、満足だったのに。大事にされて、いたわられれば、女なんてそれで、満足できるのに。

正規料金以外のお金を渡してもプレゼントを与えても「私」に関心を向けず、性的サービスをしても全く勃起しない由紀哉に対して、「私」は心の中で次のような言葉を囁きかける。

ねえ、私に欲情してよ。
勃ってよ。私を、認めてよ。

ある意味ナイーブな男性のペニスの勃ち具合で、女性の評価が左右されてしまう怖さが潜んでいる。

宮城まり子さん死去 「ねむの木学園」設立、俳優 93歳

私が20数年前に静岡県掛川市にある「ねむの木学園」に就職試験で訪れた際に、面接を担当された宮城まり子さんが逝去された。

大学最後の年の8月か、9月くらいだったろうか。掛川市までバイクで東名高速をぶっ飛ばして行った思い出がある。教育実習後、ほとんど就活を止めてしまった自分が、やっとこさ漕ぎつけた卒業後のビジョンだった。
結局は施設見学と面接試験後、掛川駅の公衆電話から断りの電話を入れてしまうこととなったが、とりあえず普通高校から教員生活を始め、教員として自信を得たら特別支援に携わろうと考えるきっかけとなり、今思えば人生の大きな転機となった。

この話の続きはいずれ、時間のあるときに。

以下、本日の東京新聞夕刊より転載

死去した宮城まり子さん=2012年、東京都港区北青山で

肢体の不自由な子どもたちの養護施設「ねむの木学園」を設立して園長を務め、「ガード下の靴みがき」などのヒット曲で知られる歌手で俳優の宮城まり子(本名本目真理子(ほんめまりこ))さんが二十一日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。九十三歳。東京都出身。二十七日に関係者のみで学園葬を営む。
戦後、劇場などで本格的に歌い始め、一九五〇年代に、靴磨きをして生きる戦災孤児を歌った「ガード下の靴みがき」をはじめ、「毒消しゃいらんかね」「東京やんちゃ娘」などがヒットした。テレビドラマ「てんてん娘」や市川崑監督の映画「黒い十人の女」などに出演し、六〇年代後半からは舞台で活躍した。
障害児が学校に行けない状況を憂い、六八年に私財を投じて静岡県浜岡町(現御前崎市)に「ねむの木学園」を設立し、園長に就任した。九七年に同県掛川市に施設を移し、美術館や成人向けの身体障害者療護施設なども併設した「ねむの木村」を開設。長年にわたって教育や福祉活動に尽力した。
自ら監督を務め、学園の様子を記録した映画「ねむの木の詩」(七四年)「ねむの木の詩がきこえる」(七七年)は多くの共感を集めた。
作家の故・吉行淳之介さんは私生活で長年のパートナーだった。上皇ご夫妻とも親交があり、ご夫妻は二〇一八年十一月にねむの木学園を訪れるなどしていた。
著書に「てんてんのらくがき」「ねむの木の子どもたち」など。二〇一二年に瑞宝小綬章を受章した。
宮城さんは二〇〇八年四月一日から七月三十一日まで、本紙夕刊「この道」で半生を振り返る連載をした。

宮城まり子さん(左)と「ねむの木学園」の園生=2018年6月、静岡県掛川市で

二十一日に死去した宮城まり子さんは歌手、俳優として活躍するかたわら、肢体不自由な子どものための施設「ねむの木学園」を一九六八年に設立し、長年にわたって教育や福祉活動に尽力した。園生から母親のように慕われた宮城さんとの別れに、関係者は悲しみに包まれた。

<評伝>
肢体の不自由な子どもたちの施設「ねむの木学園」設立から半世紀。園長として学園のために奔走してきた宮城まり子さんは「みんな、かわいい良い子。食べちゃおうか」と、ちゃめっ気たっぷりに園生への愛を語っていた。
「子どもたちのお祭り」と毎年楽しみにしていた学園の運動会。昨年の秋、「もう(食事の)味まで分からない」とがんの進行を明かしながらも、車いすに乗ったまま、数時間にわたって歌や踊りを指揮し続けた。「おかあさん」「子どもたち」と呼び合う園生との強い絆が、場内を温かい空気で包んだ。
静岡県浜岡町(現御前崎市)に、ねむの木学園をつくったのが一九六八年。土地取得や職員集めなど、さまざまな苦労を乗り越えた。園長として、「母」として、多忙を極める毎日。経済的にも常に厳しい運営を強いられたが、宮城さんの気力を支えたのは子どもたちの“輝き”だった。
園生が描く絵が放つ、豊かな感性に驚かされた宮城さん。決して描き方を教えることはしなかった。線がゆがんでいても、それがその子の持ち味という考えだった。
「言葉でしゃべれない子も、絵でしゃべることができる」。自然や音楽、宮城さんとの触れ合いを通じて、感性が花開くのをただ待つだけ。その指導法は絵画だけでなく、手描き友禅、コーラスなど多彩な活動に及んだ。
宮城さんの活動を支えたのは、長年にわたるパートナーだった作家吉行淳之介さんと交わした約束だ。「子どもたちのために絶対に(学園を)やめない」。吉行さんを生涯愛し続けたように、子どもたちにも優しいまなざしを注ぎ続けた人生だった。 (共同通信記者・瀬野木作)

園生と談笑する、宮城まり子さん(右)=1987年、静岡県浜岡町(現御前崎市)で

◆上皇ご夫妻が弔意

宮城まり子さんの死去を受け、親交が深かった上皇ご夫妻が宮内庁上皇職を通じ、養護施設「ねむの木学園」に弔意を伝えられたことが、宮内庁関係者への取材で分かった。
上皇ご夫妻は、皇太子夫妻時代から宮城さんと交流があり、学園を訪問したり、上皇后美智子さまは園生が描いた絵画などの作品展にも足を運んだりした。
最近では二〇一八年十一月、ご夫妻が学園を訪れ、車いすに乗った宮城さんと園生の活動を見て回った。

「ねむの木学園のこどもたちとまり子美術展」を訪問された上皇后美智子さまを出迎える宮城まり子さん(右)=2016年5月、東京都中央区で

養護施設「ねむの木学園」で三十九年間、宮城まり子さんと共に仕事をしてきた教諭の梅津健一さん(61)は二十三日、静岡県掛川市の同園で取材に応じ、宮城さんについて「障害のある子どもたちの健康状態を亡くなる直前まで気に掛けていた。子どもたちの学校の先生であると同時に、母のような存在でもあった」と振り返った。
宮城さんは子どもたちとのコミュニケーションを円滑にするために、わざと甘えるようなそぶりをすることがあったといい、梅津さんは「妹のようでもあったのではないか」と語った。
梅津さんによると、宮城さんは十八日、入院先の東京都内の病院で、見舞いに訪れた園の職員や子どもに、八月に静岡市で開き、自身の指揮で園生たちが歌う予定だったコンサートについて「絶対やらなきゃね」と話していたという。
梅津さんは二十一日夕、教室に園生約七十人を集め、「お母さんがお空にお出掛けしたよ」と伝えた。大声で泣きだす子もいたという。
梅津さんは「障害のある子どもたちに対する新たな教育の仕方を実践した人だった。肉親を亡くしたような思いだ」と宮城さんの死を悼み、「教育理念を受け継ぎ、子どもたちを守っていきたい」と決意を新たにした。

『目で見る仏像・羅漢/祖師』

田中義恭・星山晋也編著『目で見る仏像・羅漢/祖師』(東京美術 1987)をパラパラと読む。
シリーズ物の最終巻で、如来や菩薩と言った偉い仏様ではなく、釈迦の弟子や中国の高僧、日本の流派の祖師などの肖像が数多く紹介されている。鑑真や最澄・空海を始め、達磨大師や親鸞、日蓮など、日本史の教科書でもお馴染みの名前が多かった。