月別アーカイブ: 2009年3月

『なぜ国語を学ぶのか』

村上慎一『なぜ国語を学ぶのか』(岩波ジュニア新書 2001)を読む。
とある高校の国語の先生が、授業を受け持っている生徒と、小説や詩、古典、小論文を学ぶ本質的な意味を問答形式で問い詰めていく。生徒自身が自分で調べたり考えたりした疑問を先生にぶつけ、先生と共に疑問を掘り下げていくという形をとっている。
執筆当時、著者は進学校で全国に名の知れた愛知県立岡崎高校に勤務しており、登場する生徒も岡崎高校の生徒をモデルにしたのか、教員の行間を読んで理解する模範的生徒ばかりである。実際の高校生が読んでもあまり面白くはないであろう。
大学生か教員が改めて「国語」について考えるための本となっている。
著者扮する国語の先生は現代文と古典を学ぶ意義について次のように述べている。

「現代文は何のために学ぶのか」の答えをわたし自身は、「人間を理解し、自分を理解するため」、あるいは、「それを言語でできるようにするため」、と考えている。それが「人間としてよりよく生きるため」ということにつながるから、この科目は大切なんだと思っている。

わたしたちはよく「これはわたしの考えです」なんて口にするが、厳密に言えば「わたしの考え」というのは自分たちがそう思っているほど多くはないのではないかと思うことがある。自然に対する考えだけじゃない。宗教的なものに対する考え方、基本的な人間関係のもち方、時間の流れに対しての感じ方、死に対する考え、人生をどうとらえるか……。例をあげたらきりがない、そうしたいろいろなことに対する自分の考え方、感じ方、とらえ方に、歴史や祖先が潜んでいるということはないだろうか。自分が属する文化に影響されずに生きているひとなんて、いないと思う。その自分に影響を与えている文化は、一朝一夕にできあがらない。長い時間がかかって生まれてきた文化を知るにはどうしたらいいか。そこに古典の意味がある。古典には文化の履歴書のような側面があるからだ。
古典の勉強は、過去のことを学ぶという側面だけでなく、現在の自分の考え方や感じ方がどこからやってきたかをたしかめるという側面もある。君たちの目は、現在から未来の方へ向いているのだろうかと思うが、現在を知り未来を考える道しるべは「過去」なんじゃないかな。

『黒山もこもこ、抜けたら荒野:デフレ世代の憂鬱と希望』

水無田気流『黒山もこもこ、抜けたら荒野:デフレ世代の憂鬱と希望』(光文社新書 2008)を読む。
先週の土曜日(3月28日)の東京新聞夕刊に、「文字スクイ」という一見不思議な詩が掲載されていた。大人の使う言葉の貧困を嘆きながらも、子供の頃の縁日の楽しい思い出を描き出す興味深い内容の詩である。性別すらよく分からないなペンネームにも惹かれて著書を手に取ってみた次第である。
著者は1970年に神奈川県相模原市に生まれ、新興住宅地に育った団塊ジュニア世代の著者曰く「普通」の女性である。
団塊ジュニア世代は、子供時分は高度経済成長期の「我慢し努力すれば幸福の未来がやってくる」という教育を受け、熾烈な受験競争を強いられたにもかかわらず、大学を卒業する頃にはバブルが弾け、阪神大震災とオウム真理教事件で戦後の価値観そのものががらがらと目の前で崩壊していくのを体験した世代であると著者は述べる。著者は自らの体験と重ね合わせて、団塊ジュニア世代は戦後民主主義の「最終バス」に乗り遅れ、これから先も高齢社会の煮え湯を飲まされ続けるた「デフレ世代」であると言う。
私自身が横浜の外れの新興住宅地育ちの団塊ジュニアであり、著者の意見に頷くことが多かった。
これから注目していきたい評論家である。

今日ではそれ(常にコミュニケーションに対して高い緊張感を要請され続ける)に拍車がかかり、若者の間では携帯電話のメールを数分以内に返信しなければ「友達ゲーム」からの退場となってしまうという。まるで昆虫の通信網のような高速ネットワークである。私たちの一〇代も、「ケータイ」こそはなかったが、すでに心情的には似たような雰囲気が席巻していた。
こうしたコミュニケーション・スキルは、言葉についての高度の感受性と同時に、沈思黙考し思索することの放棄という、一見すると矛盾する二つの要素を同時に兼ね備えてはじめて可能となる行為といえる。
だが、思考せずに返信を繰り返すという行為、いや、もっと言えば相手の「テンション」に瞬時にあわせる「だけ」のコミュニケーション・スキルを駆使し続けることは、言葉と思考と感性との間に築かれた、自分なりのバランス感覚の保持を困難にする。この不協和音は、言語化できない(言語化以前の)「痛み」へと収斂されていくのではあるまいか。

『癌:患者になった5人の医師たち』

黒木登志夫他『癌:患者になった5人の医師たち』(角川Oneテーマ21 2000)を読む。
癌の研究や治療で第一線に立つ医師たちが、実際に自身が癌になった経験を語る。彼らは癌の治療や抗ガン剤の副作用についての知識や経験は豊富でも、患者としては全くの初心者である。実際に癌と判明してうろたえたり、抗ガン剤の副作用の苦しみを経験する中で、患者の視点に立ったインフォームドコンセントの方法や病室のあり方について考察を加えている。
時には自分と180度違う立場で自らの仕事を振り返ってみることも必要だと感じた。
本書の中で、ある医師は次のように述べている

入院生活を体験して、患者さんにとっては病棟こそが「生活の場」であるといことも痛感しました。入院している患者さんにとっては病室が生きる場、生活の場、寝たきりの人にとっては畳一畳ほどのベッドの上が生きる場になります。
とかく私たち医療者は、病室をただ単に医療や看護を行う場であるという意識が先行して、患者さんがそこで生活しているという意識をなかなかもてません。入院患者さんがそこにいるという程度にしか見ていないのです。病室のベッドで生きている、ときにはそこで人生の最後の仕上げをしているのだ、という気持ちを忘れがちです。ベッドの上で何日も生活した経験がない健康な人には、実感が湧いてこないのです。しかし、私は医療者として、このことを絶対に忘れたくないと思っています。

『土の中の子供』

第133回芥川賞を受賞した、中村文則『土の中の子供』(新潮文庫 2008)を読んだ。
幼い頃に壮絶な暴力を受けたことがトラウマとなって、大人になっても、暴力を受けたり、物や人間関係を破壊することでしか自分の存在を確認できない男の心理を描く。ちょうど太宰治の『人間失格』の後半部を読んでいるような感じで、死や虐待の恐怖から逃れられないどころか、逆に自死を希求してしまう歪んだ心模様を、徹底した自問自答形式で描いていく。

芥川賞を受賞した表題作の他に、『蜘蛛の声』という短編も掲載されているが、内容はよく似ている。
あまり一般受けのする作品ではないが、いかにも「純文学」の薫りのする作品で、私自身の浪人時代の荒れた気持ちを思い出しながら読むことができた。