山村美紗『伊勢志摩殺人事件』(光文社文庫 2006)を読む。
「自動車電話」や「携帯電話機」といった言葉が使われており、随分古いなあと思っていたら、1992年から93年にかけて週刊誌に連載された小説であった。
作者が京都在住だったので、東京は全く舞台とならず、京都と伊勢、鳥羽、白浜を巡る旅情推理小説となっている。
作者山村さんの代表作ではないのだが、「推理」とはほど遠いもので、ただ観光地と濡れ場シーンを織り込んだだけの淡々とした物語であった。
月別アーカイブ: 2013年7月
悔いこそは未来なり
本日の東京新聞夕刊のスポーツライター藤島大氏の連載コラム「スポーツが呼んでいる」が興味深かった。
高校野球について述べているのだが、学校教育や青年教育全般にも通じる内容であった。これまで何かと否定的に捉えられてきた一発勝負で優劣を決することの教育的価値を全面に支持している。引用してみたい。
(中略)
夏の甲子園大会決勝を頂点とするトーナメントの弊害も長く語られてきた。
1年間、たっぷりと鍛錬を積んできて1試合で終わる。控え部員にいたっては練習と試合のバランスを極端に欠く。
そうした否定的な側面を理解しつつ、それでも高校野球を象徴とする「トーナメント一発勝負」に美徳はある。
それは「感情の揺れの大きさ」である。あとのない試合では、勝っても負けても心がうんと動く。もし真剣に競技に打ち込んできたなら、喜びと悲しみも極端に近づく。ここが貴重なのだ。
人間は感動で成長する。ノックアウト方式では、わずかな油断で長期間の練習の成果がもろくも崩れる。反対に、大会前に困難を乗り切ると、みるみる力がついて、強敵を倒したりできる。
それらを経験すると「人生に対するおそれ」と「人間のおそるべき可能性」の両方を実感としてつかめる。
若者は「負けても次のあるリーグ戦」によって、同程度の実力者で競い、身の丈に合ったスポーツ活動をすべきだ。練習よりも試合を楽しもう。正論かもしれない。
しかし若者だからこそ「負けたら次のないトーナメント」の高揚と冷徹と残酷を思い知ることも必要なのである。頂上体験は青春を磨き、悔いにまみれる挫折もまた思春期に深みをもたらす。一瞬のために膨大な時間を過ごすのも若き日の特権なのだ。
高校野球はどこかおかしい。でも、ただおかしいだけなら、こんなに人は育たない。
このほど米国のヤンキースで引退式典、かの松井秀喜さんは、まさに「甲子園への道」が育んだ。さまざまな均衡を欠いた仕組みであっても立派な個性は出現した。これからもするだろう。ここは肯定的人間観の出番である。
トーナメントに散った者よ、深夜の床でアーッと叫ぶ悔いこそは未来の力なのだ。
『超人探偵 南方熊楠』
辻真先『超人探偵 南方熊楠』(光文社文庫 1996)を読む。
南方熊楠が生活していた和歌山県田辺市や白浜町を舞台とした推理小説である。
関西の道路地図を片手にしながら、熊野本宮大社から中辺路を通って、田辺に至る車での旅路を登場人物と一緒に味わうことができた。
辻氏は著名な作家らしいが、今回の話の中身というと、出来合いの作品に南方熊楠というスパイスを効かせただけの代物であり、観光地の紹介以上にドキドキするような場面はなかった。