月別アーカイブ: 2003年11月

『死ぬまでにしたい10のこと』

イザベル・コヘット監督脚本『死ぬまでにしたい10のこと』(2003 松竹)を観に行った。
制作者の多くがスペイン人で、俳優はカナダ人やアメリカ人という異色の映画である。余命3ヶ月と診断された23歳の女性の心理を巧みに描いていた。
解説者風に述べるならば、死を前にすることで人間は初めて自らの生の目的を問い始める。しかし将来の夢を夢想する前に17歳で結婚し、親の庭先にあるトレーラーの中で暮らす女性にとって、残された人生でやり残したことは「家族でビーチへ行く」ことや「爪とヘアースタイルを変える」など容易く実現可能なものしかない。男である私はこの映画の主題をそうした広い世界を知ることが出来なかった女性の悲劇であると捉えた。しかし女性の見方はかなり違ったものになるだろう。

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『恐竜はなぜ滅んだか』

小畠郁生『恐竜はなぜ滅んだか:中生代のなぞ』(岩波ジュニア新書 1984)を読む。
紙幅の大半を個々の恐竜の特徴の解説に割いているのだが、活字だけだとどうにもその恐竜自体の姿が想像できず、丹念に読めば読むほど消化不良を起こしてしまう。また、20年も前の本ということもあるが、表題でうたっている恐竜絶滅については明らかな検証不足に終わっている。

人類は約200万年地球に存在していますが、かりに恐竜の四分の一を生きるとしてもまだ5000万年の未来があります。ここで人類の現況に眼を向けると、新生代を終わらすか、あるいはそれを続けるかは、まさに知能を発達させた人類の責任だと思います。恐竜とは異なり、私たちは理性によって行動を選択できるからです。

上記のようなまとめで筆を置いているが、果たして「理性」で隕石衝突や超新星爆発を防げるのだろうか。それとも『アルマゲドン』のような科学技術の発達と人類の勇敢な行動を筆者は期待しているのか……。

『わが性と生』

瀬戸内寂聴『わが性と生』(新潮文庫1990)を読む。
出家前は自由奔放に振る舞ってきた彼女ならではの性の体験や見聞をユーモラスに語っている。性に今だ拘泥してしまう出家前の瀬戸内晴美と、すでに性を達観している出家後の瀬戸内寂聴の往復書簡集という形式をとっている。
なかでも紫式部についての話が興味深かった。紫式部は漢学の素養があり、道長の娘の彰子中宮に「白氏文集」の講義をしたと言われているが、同時に彼女は漢文で書かれた閨房術の教典でもある「医心方」房内篇にも精通しており、彰子の性の教育係としても一役買ったと筆者は推測する。四十八手なるものもこの「医心方」房内篇から出ており、一条帝の気を引くために体位から呼吸の整え方から目の付け所まで懇切丁寧に指導したというのだ。これほどスケベな紫式部相手では、当時藤原道長や中宮彰子の敵役であった藤原道隆陣営は清少納言をもっても太刀打ちできないのは理であろう。

『僕のピース・メッセージ』

山本コウタロー『僕のピース・メッセージ:HIROSHIMA’87-97への道のり』(岩波ジュニア新書1990)を読む。
競馬とフォークが掛け合わされた漫談調の「走れコータロー」の制作秘話から、70年代以降の学生運動の終息、そして戦争反対のメッセージを盛り込んだ広島野外コンサート-HIROSHIMA’87-97-実施までの経過を、その時その時の心情を交えながら分かりやすく紹介している。筆者自身、「戦争になってから平和を語ってももう遅いし、戦争になりそうな状態で平和を語ってももう遅い。平和というのは、もしかしてこれが戦争になるかな、これが危険になるかなという段階でたえずチェックし、危機を取り除いていく作業を繰り返していく。そうしてようやく平和は維持できるのだ」と、出来ることから身近なところからの一つの運動提起として、音楽活動を通した平和維持活動を訴えている。
ネットを調べてみたが、この”HIROSHIMA’87-97″コンサートは当初11年越しの計画であったが、どうやら89年で活動を終えたようだ。山本氏自身現在は白鴎大学の教授として地球環境問題論を教えている。大学の学生に当てて次のようなメッセージを発している。

まずは関心をもつこと。 無関心のまま、 ある日突然パニックに巻き込まれたのではもう遅い。 関心を持ち、 また疑問を持つことが大切だ。 そして、 自分の感じたことを表現していこう。 頭の中の言葉を第三者にわかるように発信してみよう。 誤りや否定されること、 失敗などを恐れてはならない。 地球環境問題は、 私たち年長者よりも、 君たち青年の将来にずっと重くのしかかる。 だからこそ、 知恵を集め、 解決のための方策のすべてを論じていきたいのだ。

『手塚治虫がねがったこと』

斎藤次郎『手塚治虫がねがったこと』(岩波ジュニア新書1989)を読む。
『ジャングル大帝』や『三つ目がとおる』、『火の鳥』などを中学生にも分かりやすく解読している。全作品を通じて、戦争や環境破壊に対する断固たる「否」そして、生命へのつきとおせぬいとおしみに、手塚漫画の核心があるとの結論であるが、論旨も分かりやすく私も頷く箇所が多かった。

1974年に『少年キング』に連載された『紙の砦』の中で、1945年当時の軍需工場での場面で、手塚自身の分身である大寒鉄郎の次のような会話がある。

「大寒さんもこの工場で働いているの?」
「京子ちゃんもかい? こりゃグーゼンだね」
「あたし倉庫部なの。……音楽学校に入ったのに、こんなことやらされるなんてひどいわァ……。だから、お昼休みのコーラスだけがたのしいわ」
「ぼくは旋盤工場さ……。でも、サボってかげでマンガばかりかいているけどね」
「あいかわらずかいてるの?」
「ぼくにマンガかくなっていわれたら首つるよ。戦争が終わったら、自由にマンガかけるようになるんだろうね。ぼくはマンガ家になるよ!」
「あたしはオペラ歌手になるわ」

ちょうど昨年見た「戦場のピアニスト」の映画のように、マンガを描くということにこだわる姿勢を見せつけることで、戦争という状況に抵抗している手塚の姿が垣間見える。中野重治の『村の家』で描かれた勉治の「やはり書いていきたいです」