月別アーカイブ: 2000年5月

アルチメットの今後

書き込みどうもありがとう。
私も94年に大道塾の市原選手がホイスに負けた第2回アルティメットを見て、総合格闘技を始めました。その点で先日の桜庭とホイスの試合は印象深かったですね。あれから6年、やっと日本の格闘技界がグレイシーを破ったのかと。
パンクラスの船木とヒクソンの試合にしても、個人と個人の試合ではなく、日本の総合格闘技界とグレイシー一家との試合でしたよね。シューティング、パンクラス・大道塾が93年以前から総合性をうたっていましたが、それ以後もう一度UWF的な枠組みが空手界・プロレス界・柔道含めて生まれてきました。
そしてマウントをいかにして取るのか、いかにして取らせないのか、テイクダウンをいかにしてとるのか、タックルをいかにして防ぐのかという研究が団体の枠組みを越えて始まりました。
早晩ヒクソンを倒す日本人も出てくるでしょう。しかしこの動きはヒクソンに勝つ日本人が現れた後も続けていってほしいと思う。今日本には、これまでのプロレス的なものではなく、社会武道的な総合格闘技が必要である。
考えがまとまりませんが。そろそろ眠いので。

それにしても今TBSラジオのアクセスという番組を聴いているが、宮崎哲哉は相変わらずいいねえ。


00/05/30 1:36:31 ジュリアーノ
同感?!!
逆天秤って何ですか?腕ひしぎのことでしょうか?
実は私もヘンゾ・グレーシーという人の講習会に行ったとき、エンセン井上という人の道場に通っているというマッチョな人に腕ひしぎを極められ1年間くらい痛かったことがあります。
それはさておき、確かに個性を主張する人は以外に自分のワンパターンな思考や行動を正当化するためにそれを主張する傾向にあるように私も思います。
だってねえ、本当に個性的な人って自分を個性的だとは認識するのでしょうか。
人は得てして無いものにあこがれるように思います。


「アルチメットルール」

昨日パンクラスの船木とヒクソングレイシーの試合をテレビで観た。
大方予想通りの展開だった。
しかしヒクソンの船木をテイクダウンさせる首を引っかける攻撃はうまかった。
しかしアルティメットルールでの試合もテレビ中継されて未経験者の
ファンが出てきたのを見るにつけ何かしらの違和感はぬぐえない。

それにしても解説者の視点はなかなか良かった。これからは大道塾の
時代がやってくるのか!?


00/05/29 1:15:19 ジュリアーノ
はじめまして
突然のカキコ失礼します。
船木とヒクソンの試合をテレビでご覧になったのですか。
わたしも見たかったけれども、見られませんでした。友人がグレーシー柔術をやっていて、現場から携帯に結果報告を受けましたが・・・。
それはそうと、ここはどういうページなのでしょうか。
武道を検索していたら「一言お願いします」ででてましたけど。
私のパソコン画面を開いてみましたがあまりの凄さに閉じてしまいました。うーん、謎です。
それでは


00/05/29 20:29:39 主催者
腕ひしぎは怖いね
書き込みどうもありがとう。
「武道」でこのページが検索されるのですか。初めて知りました。

先刻肘にあまりに無理が来ているので病院に行った。
幸い骨に問題はなく、間接の袋が少し伸びているということだった。
先月”逆天秤”をかけられて、それ以来10年前の痛みがよみがえってきた。
10年前におかしくした際も”外巻天秤”が変なところにかかったためだ。

現在3年生の小論文を添削しているが、アメリカの教育制度と比べて、
「個性を認める教育が大切だ」と結論をまとめたありきたりのつまら
ない小論文が多かった。「個性」を主張する論に限って個性がない。


昨日の新聞から

昨日の新聞を今日読み、文芸評論家の小田切秀雄さんの死を知った。卒論を書く際に私も拝読したが、中野重治の一番の理解者だった人物だっただけに残念だ。小田切秀雄さんの中大の学費闘争に寄せた文章を過去に参考にしたことがあるが、それも秀逸だった。運動の現場から中野重治は読まれなくてはならない。しょぼい大学の文学部教授などに中野を論じて欲しくないと私は感じていたが、その点で小田切さんの文章は現場感覚がにじみ出ていた。

以下 追加


大学をめぐる紛争-私の意見-

(思想の科学 1968年4月号 No.74)
小田切秀雄

警官導入をめぐって

 学生運動が直接に支配権力にぶつかってゆき警官隊と流血の衝突をする、というのは、以前は後進国だけの独自なことだったが、さいきんはすっかり変わってきましたね。アメリカの学生運動がさいきんのような激しさを示したのは空前のことで、知識人や市民の反戦行動ともども、アメリカ社会とその意識とが深部からはげしく転換しはじめていることを語っている。そして、アメリカだけでなく、フランスの学生運動、イタリーから西ドイツの学生運動までもが、警官隊とのはげしい衝突を示すようになっている。社会主義国のポーランドでさえ、そういう衝突が起こったと伝えられています。

 日本の学生運動のさいきんの様子、機動隊との衝突のくりかえし、ということも、そういう世界的な動きのなかで見る必要がありましょう。権力がわの大衆支配、世論操作がきわめて高度化している現状のなかで、権力がわの政策に反対する政治的な意志表示の行動が、ただちに警官隊との衝突をともなわざるをえないということに、民主主義の現代的な新たな深刻な問題が出てきています。世界的に帝国主義諸国の権力がしだいに追いつめられてきていて、現に危険な進路をえらび、またはこれからえらぼうとしているときに、革新組織や労働者組織がすでに体制内の安全弁的な有機的機関と化しているところでは、学生たちが前面に出て行って権力がわに進路変更を求めざるをえない。それにたいして権力がわは、国家権力のほんらいのもっている暴力装置としての側面を露骨に発動するにいたる。

 日本の場合、革新組織がすでに体制内野党と化してしまった、といえば言い過ぎですが、革新政党の一部には、何かというとすぐに機動隊に依存するという動きがここ数年いちじるしく、しばらく前の夏の広島から、さいきんの佐世保にいたるまでその例が多い。これは、まったく体制内野党の思考様式と感覚でしょう。大学でも、進歩的な大学と見られているようなところでさえ、当局者となった進歩派の教授たちが学内に機動隊を導入して学生を逮捕させ、またはそれを予定に入れて学生対策をたてる、というようなことが行なわれているようで、これでは、昭和26年のいわゆる次官通達(警官の学内導入を規制したもの)を、いま政府がわがふみにじろうとしているのにたいして、どのようにして対抗するというのか。学生の問題を、大学自身では処理できぬところに至ったと、大学当局があっさり断定し、そこにいたるまでにも教育の場としての公正と辛抱強さを欠いていたことに無反省な、そういう大学がふえているのにたいして、学生がわでは、いわゆる活動家以外の非政治的部分までが、大学内の問題を外部の暴力装置をかりてケリをつけるやり方に、本能的な反撥をもち、大学不信の念を深めている。学生がわが乱暴な行為に出るのにたいしては、教育の場としての公正と信念による辛抱強さとによって対処する以外にはない、と私は信じています。

 この点で、さいきんの佐世保事件のさいの九州大学の教授たちの動き方は、全体としてたいへんにりっぱだったと思う。空語と化したように見えていたアカデミック・フリーダムということばが、実体をもって生きていたわけです。私大のほうがかえってそういう伝統に弱くて、学生自治会の委員名簿をひそかに警察に届けている、というようなところが多い。驚くべきことですが、事実です。ただし、このあいだの中央大学のように、いろいろの問題はもちながらも最終的には、機動隊の導入とそれのもたらす結果にたいする配慮から、学費値上げ案をひっこめたというのは、そのかぎりでは、よかったですね。

授業料問題

 しかし、政府によるインフレ政策の急激な進行のなかで、いつまでも学費値上げをしないでいるということはできません。インフレに苦しんでいるのは学生のその父母だけではない。大学教師の低賃金は、敗戦後ずっと一貫した特色になっていて、極端なカケモチ教授や研究離脱型教授がふえているのも、本当のところやむをえないという面がある。だいいち、教師が誠実かつ熱心であろうとすればするほど、また学生との個人的な交流をつくろうとすればするほど、いまのマンモス大学のもとでは、教師として労働過重になり過労になり、学者としての研究上の努力はオルスにならざるをえず、生計上では自分の子供を大学にいれることさえむつかしくなる、というのが実情です(米・ソ・仏・英・東独・西独・加・等々の諸国にくらべて、ほぼ三分の一から五分の一の給料です)。ただし、それだからただちに学費値上げをすべし、ということにはならない。私大の場合、学費値上げをする前にまず改革しておかねばならぬ無数のことがある。支出すべからざることに多額の支出を行ない、ていさいをととのえるためにりっぱな建築や設備をきそい、むかしからの行きがかりを断つことができず、研究と教育の充実のための沈潜も気迫もない-こういう状態のままで、安易な値上げを決めて学生におしつけるのでは、学生がわとして納得できないのは当然のことであり、学生活動家の宣伝と扇動は成功せざるをえない。

 学生たちは、政府のインフレ政策への反撃のためにそのもっとも弱い環として大学を追いつめる、ということをも考えているのであろうが、それ以上に、学費値上げ反対運動を機に大学の現状を改革することをめざしているのであろう。何が何でも値上げ絶対反対、というのでは、やがてかれらが学生大衆からも浮き上がってしまうことくらい、十分に承知しているはずだからです。したがって、大学がわとしては、学費値上げを大学改革計画およびその手順と結びつけて実行する以外には、学費紛争に解決の道はない。中央大学は学費値上げ案を大学改革案と結びつけて提出したので、その限りでは妥当な進み方をしたのだが、改革案の内容は教授さえ、どれほども納得させえないていどのものだった。学費問題は経済問題であるばかりでなく、それ以上に大学改革の実行の問題であり、機動隊の導入の危険ということだけでなく、大学自治の実質そのものの問題でもあります。学生運動を狂犬の集団のようにいう大学当局者がいるが、自分の弱みや怠惰をタナに上げて威たけだかになる大学当局がわこそが、学生を乱暴な行動にかりたてている(または乱暴な行動をしたい一部の者にその原因を与えている)場合がすくなくない。

 現状では、一般に学費値上げを避けることができず、したがって紛争は各私大で続かずにはいないでしょう。そのさいに、ほんとうに大学改革が行なわれるかどうか、が“大学の顛落”を避けるかどうかを決めることになると思います。

『兎の眼』

先程やっと中間テストの採点が終わった。いつもながらぎりぎりに問題が出来、ぎりぎりに返却となった。早め早めと思っているのだが、締め切りが近づかないとやらないのは学生時代の悪習か。
生徒には「計画的に」と口を酸っぱくしつつも、言うは易く行うは難しを実感する。

今灰谷健次郎の『兎の眼』を読み返している。
読みながら生徒のことを「受け止める」ことの複雑さを感じる日々である。

私のパソコン画面

 

本日生徒との面談の中で、芸能人についての話が出た。
モーニング娘が11人もいたと初めて知った。つい最近まで8人だったのに。
しかし芸能人の名前と顔は最近とみに覚えにくくなった。
MAXと太陽とシスコムーンとDREAMの区別がつかない。
釈由美子と高橋由美子の区別はつくが、19とゆずの区別がつかない。
果てはグレイとラルクの違いも分からない。
歳をとるというのこういうことなのか。

下記の生徒へ書き込みありがとう。
誰かは認識出来ないが、先生そのまんまって感じのHPというのは気になるなあ。
どこにそれを感じるのか…。

最近研究集録をまとめているのだが、煮詰まっている時のパソコンのトラブルは本当に許せない。いいところまで打って保存しようとした途端にフリーズするというのはパソコン側の作為すらも感じる。
マックは使っている人の個性が出てしまうためだろうか、私のマックは画面中至るところにファイルが散らばっているため非常に誤動作が多くなってしまう。
大体アプリケーションが文書ファイルに埋もれているために、いちいちマウスで掘り出すなんて極めて前近代的作業である。
マックは画面のことをデスクトップというが本当の私の机そっくりである。
整理すればよいにのついつい画面上に散らかしておくから整理出来なくなる。
今年中にマックOS10が出るのだが、高機能よりも安定性の方が魅力的である。