古代が終わり中世がいつから始まるのかについていろいろと学説があります。これを調べ、その是非を論じなさい。
(1)「12世紀」説
かつては,古代奴隷制社会に続き,近代資本主義社会に先行する社会で,封建制度中軸とする社会を中世と呼び習わした。一般的には鎌倉室町時代を前期封建社会,江戸時代を後期封建社会(近世)として区分している。
鎌倉室町時代は封建的身分も緩く,朝廷・公家の武力も残存していたため,封建勢力も分権的であり,後代に続く準備期として位置づけられた。江戸時代に入ると幕府による強大な中央集権体制が敷かれ,兵農は分離され,階級的主従関係が強固なものになり,幕藩体制が長期に渡って維持された。つまり,江戸時代を完成期とする封建体制の出発点を,武家社会が成立した鎌倉幕府成立時に求めたのである。古代と中世の境目は,政治的・制度的な区分に求められた。
(2)「10世紀」説
しかし,封建制の基盤である荘園制は鎌倉時代に突如として整備されたものではない。竹内理三の『寺領荘園の研究』(吉川弘文館復刊,1942)や,西岡虎之助の『荘園の研究』(岩波書店,1953)などにより,初期荘園は律令国家体制の土地機構である班田制の崩壊と併行して成立したとの考えが提出された。墾田永年私財法をきっかけとして,有力寺社や貴族,地方豪族が盛んに開墾を進め荘園制が展開していく8世紀後半から9世紀を封建制度の始まりとする見方である。
つまりは,古代律令国家の基盤が早期に破綻し,班田の否定という役割を担った荘園制を拡大していったという唯物論的歴史観である。西岡は班田制を崩壊させる主体として浮浪・逃亡に注目し,荘園は彼らが労働の主体を担ったとして高く評価している。また,武士においても,平将門の乱が武士発生の契機として,かつ源頼朝政権成立の前提として位置づけられ,平忠常の乱,前九年・後三年役を経過して徐々に貴族政権に取って代わっていくという革新的な役割が与えられた。
こうした歴史観が打ち出された背景には,近代天皇制国家を古代天皇制国家である律令体制に置き換え,近代天皇制国家の克服を律令国家の克服,すなわち中世国家や中世社会の成立のうちに見出そうとする戦時中の歴史家の思惑も多分に影響したものと考えられる。
そのため,中世武士階級の発生は古代貴族政権を打ち破る変革主体として英雄的な評価が与えられ,荘園制度が確立し,平将門以降を中世とみる歴史観が重んじられた。
(3)「11世紀後半」説
しかし,近年の歴史学は,国家体制の動向ではなく,民衆生活の変化を軸にした研究が中心となっている。最新の研究では,班田制の崩壊が一足飛びに荘園制に移行しないという結論を得ている。木村茂光の「中世社会の成立と荘園制」(『あたらしい歴史教育2』大月書店,1993)では,10世紀前半までの民衆と土地の関係が荘園制に該当しない理由を次のようにまとめている。
1.班田制崩壊後の10世紀以降においても,朝廷の公田・公領支配が継続されている。
2.鎌倉時代の一国規模の土地台帳である太田文などの分析によって,荘園制の確立は早くとも12世紀前半であること。
3.同じく太田文などの分析から,荘園制が確立しても1国の耕地のうち荘園は5〜6割を超えることがなく,後の4〜5割は公領として存在していたこと。
4.鎌倉時代の御家人役や一国平均役などの国家的な負担の賦課対象が太田文に記載された公田であったこと。
木村によると,9世紀後半の班田制の崩壊=律令国家の動揺を導き出した変革主体は富豪百姓の活動に求められ,彼らの活動に対応して成立したのが10世紀初頭の王朝国家であり,そこで採用されたのが公田制=負名制である。そして,その公田制が院政の拡充とともに荘園制へ展開していく時期を11世紀後半と設定している。その設定の上に,中世社会形成の原動力が富豪百姓=田堵らの農業経営と開発,さらにはそれらを契機とした村落の形成にあると評価している。そして,村落の進展にともなって公田制が再編されて公領=国衙領が形成され,その国衙領が基盤となって寄進地系荘園も成立すると説明している。
従来の歴史学では民衆生活という視点が抜け落ち,社会制度や経済制度から歴史を叙述していたために,鎌倉時代の武士は初めから館を構え村落を支配していたというイメージが定着してしまった。しかし,田堵らが農業経営や開発のために自主的に形成したのが中世村落であり,そうした中世村落の上に院政や武家政治が展開されたという事実に着目すれば,中世後期の一揆の時代に村落が闘争の基盤になるということも理解できるであろう。
《参考文献》
木村茂光「古代から中世へ」・鈴木哲夫「中世社会の成立」『前近代史の新しい学び方』青木書店,1996