月別アーカイブ: 2011年8月

『唯物論研究』

本棚の奥から、季報『唯物論研究』(季報『唯物論研究』刊行会 1998.7)を取り出してぱらぱらとながめてみた。

唯物論とは何か、唯物論は人間をどのように理解し、人間の社会行動をいかに解釈するのか。これは季報『唯物論研究』がたえず立ち返り検討しなければならない課題である。
現代の唯物論とは、「唯物論」を公認としたソ連邦が崩壊したことによって「解放された」唯物論のことなのか、それとも資本主義社会の生み出す唯物論の全面的展開のことであろうか。現代日本の社会的思潮は唯物論が当たり前となっているように見える。今あらためて唯物論を論じることが、混沌たる現代世界の未来を見るために、何か寄与するところがあるのだろうか。

編集委員である大阪音楽大学教授の高橋準二氏は論の冒頭で述べているように、「唯物論」の存在意義そのものを問い直すことが求められているようだ。
田畑稔編集長は「唯物論」について「対談 唯物論はどこへ進む」の中で次のように問題を提起している。

われわれが現に入り込んでいる生活諸関係の中で思想の意味を考えないといけないと思います。しかし、かつては、たとえばエンゲルスのいう「哲学の根本問題」のように、人類の始まりにさかのぼってそこから一貫して唯物論と観念論に対立があるんだという形の処理の仕方になっていたのではないか。こういうことを反省の基礎に置いて、弁証法的唯物論にはどういう意味があったのか問い直す必要がありましょう。
弁証法的唯物論(マルクス主義的実践哲学)が市民社会の唯物論(資本主義を支える物質主義)に負けたことは明らかな事実であって、海の向こうで負けただけじゃなくて、日本でも負け、われわれの内面でも負けているわけですから、そこはきちっと認めたうえで、唯物論というものの可能性・現在の在り方・批判する方向が問われているのではないか。僕自身はかなり前から、自己反省的に感じていたことなんです。
(中略)マルクスは「新しい唯物論」という形で市民社会の唯物論に対する批判を対置して行くわけですけれど、新しい唯物論という形で行くのか、それとも新しい唯物論にはならないのか。この辺りが唯物論の今日的課題でしょう。

ここで論じられている「唯物論」とは、観念論や唯心論を退け、人、物、金の動きから社会を構造的に見つめ、その生成過程を根本的に変えていくという運動としての理念である。その大元の理念が揺らいでしまっているので、実践主義の運動がうまく回らないと問題視されているのである。しかし、こうした理念と実践の問題は、「卵が先か、鶏が先か」と同じで、結論が出ないものである。観念としての「唯物論」論争に陥ってしまっている感が拭えなかった。

本日の新聞から

春日部市が詳細調査へ

春日部市内の認可外保育施設で、生後8か月の男児が昼寝中に心肺停止状態に陥り、死亡していたことがわかった。厚生労働省の「認可外保育施設指導監督基準」は、保育従事者を常時2人以上配置するよう定めているが、男児に異常が生じた際、昼寝していた部屋に施設職員はいなかった。市は今後、施設から詳しい状況の説明を求め、経緯を調査する。
市保育課によると、男児は市内の会社員(31)の長男。22日正午頃、施設に預けられ、午後1時頃にミルクを飲んだ。施設長が同2時頃、男児をベ ビーベッドにあおむけで寝かせ、寝たのを確認して5分後に別室に移ったが、同2時20分頃に戻ると、男児がうつぶせでぐったりしているのに気付き、119 番したという。男児は同4時、搬送された越谷市内の病院で死亡が確認された。春日部署によると、男児に外傷はなく、司法解剖の結果、死因は「急性呼吸循環不全」とわかった。(2011年8月27日  読売新聞)

本日の新聞各紙に、春日部市の認可外保育施設での乳児死亡事故が報道されていた。認可保育所に入れない待機児童が多い中、認可外保育所に預けざるを得ない家庭も多い。認可外保育所は行政からの補助金が全くないところが多く、当然のことながら人件費などを切り詰めざるを得ない。保育を巡る環境整備がないところで、民間施設の不手際を責めるようなことがあってはならない。

今回の事件は全くの他人事ではない。ちょうど私の長男も同じ「認可外保育園」に預けており、数日前に急に園を継続できないとの電話があり困っているところである。大変丁寧に子どもを見てもらっていたので、さも人的ミスに起因するような報道のされ方には疑問を禁じ得ない。

『対論・筑紫哲也 このくにの行方』

TBSニュース23製作スタッフ編『対論・筑紫哲也 このくにの行方』(集英社 2003)を読む。
ずいぶん前から本棚に鎮座していた本であるが、タイトルが気になって手に取ってみた。2002年8月から2003年9月にかけて放送された番組内容に補筆、加筆を加えて構成されたものである。キャスターであった故筑紫氏が、カルロス・ゴーン日産自動車CEOや養老猛司氏、加藤周一氏、緒方貞子さんなど8人の論客を相手に、経済・社会・政治・教育・文化など様々な面における日本の可能性を問うという形で進行していく。

この手の話は、日本の将来を悲観的に捉え、現状の問題点を指摘するという結論に流れやすい。しかし、この本では「日本的経営」や「ものづくり」「芸能文化」などで、日本は秀でた業績を残しており、グローバルな視野持ちつつも、自信を持って伸ばしていけばよいと述べられる。

本来の平和主義

本日の東京新聞夕刊に、神奈川大学経済学部定員外教授の的場昭弘氏が文章を寄せている。一部を引用してみたい。

日本の置かれている現況は、ひょっとするとナチスの侵略に遭遇したフランス第三共和制に似ているかもしれない。第一次大戦で多くの人命を失ったフランスは、軍備を増強させる隣国ナチスに対し、ひたすら消極的平和主義をとらざるをえなかった。自国民の死を恐れるあまり他国の軍備増強に無批判になったのである。

夭折したフランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、『根をもつこと』という作品の中で、本来の平和主義は死ぬことへの憎悪ではなく、殺すことへの憎悪であり、フランスでは、それが死ぬことへの憎悪だけになってしまったと批判している。(中略)
翻って、戦後わが国の平和主義支えたのも、殺すことへの憎悪ではなく、死ぬことへの憎悪ではなかったか。世界中で拡がる殺戮の嵐に対して、自国民を殺さなかったことは一つの成果だったとしても、殺戮に対する義憤をもち、積極的に行動を起こさなかったとすれば、それは本来の平和主義を歪めるものではなかったのだろうか。

平和主義という憲法の基本原理が、死ぬことへの憎悪の上に成り立つとしたら、それは国家を内向きにさせ、外に向けて何かを発信する勇気を欠如させてしまうだろう。

殺すことへの憎悪を知らない国家には、国家としての威厳も独立もない。したがって、他の国民の命のみならず、自国民の命にも関心をもたない。こうした国家が自国民を守ることはおそらくないであろう。それこそ、侵略あるいは災害を起こす殺戮におののき、国民に背を向け、ひたすら国民の犠牲の上に国家の延命のみを図るであろう。

実は戦前の日本は、死ぬことへの憎悪をもたなかった国家かもしれないが、殺すことへの憎悪も知らなかった国家であった。戦後の日本は、平和主義を主張しながら、結局平和の実現は他人任せにして、殺すことへの憎悪を知らず、死ぬことのみを憎悪する国家体制に変わっただけであった。こうした国家に国民を守ることを期待しても、それは不可能というものである。

どんなに民主的な体制であっても、国家の危機においては、その民主性は一時停止せざるをえない。それが独裁へと至らないのは、殺すことへの憎悪があるからである。

的場氏は、「平和」というお題目を唱えていただけの日本政府や市民運動、左翼運動全般に通底する観念論に疑問を呈している。一方で、「殺戮に対する積極的な行動」「外に向けて発信」という見解は、一歩間違えると、お節介な米国的平和主義の二の舞になってしまう危険性もはらんでいる。

トミカ博へGO!

家族を連れて、幕張メッセで開催されているトミカ博へ行ってきた。
初めて家族5人での遠出となったが、渋滞もなく、涼しい天候の中、スムーズに行って帰ってくることができた。
あまり大掛かりなアトラクションなどはなく、トミカの歴代のミニカーの展示や、組み立てたり、並べて遊んだりするコーナーがたくさん設けられていた。
最終日ということもあって、芋を洗うような状態であったが、閉場間際はかなり空いて写真をたくさん撮ることができた。
2歳の息子も大興奮の様子で、お父さんの疲れも少し癒され、行ってよかったと感じる一日であった。