月別アーカイブ: 2009年12月

『青春への遺書』

宮下康仁『青春への遺書:新しく出発ためのさらば青春の手記』(ルック社 1973)を読む。
学生時代にぼろぼろの状態で手に入れたものなので、読みながらどんどんページが抜けていってしまった。
執筆当時早稲田大学4年生であった著者が、西荻窪にある都立西高校から駿台予備校、そして早稲田大学に至るまでの友人との交流記である。学校のことや酒、女性だけでなく、受験体制や学生運動まで話は広がっていく。個人の悩みを社会に訴えたり、社会の矛盾が個人の悩みとなるなど、社会と個人がべったりと密接していた時代状況を感じ取ることができた。
高校3年生になって受験を意識するようになり、著者の宮下君は次のような感想を漏らしている。

東大では全学バリケード封鎖へと闘争スローガンが変わり、反日共系の学生の間で対立が激しくなっていった。東大とは、日本 資本主義のいつも最先端にある建物だ。一年生の頃、三四郎池で藤棚を眺め、広い広い学内を散歩していた。あの時の東大は今、もうないんだ。大学解体という 恐ろしい言葉。いつの時代も叫ぶことのなかった大学解体という言葉。大学生は大学生でしかなかったし、いつも問題は自分の外側にある環境だった。学問のあるものが外側の世界を冷静な目でみつめ、教授たちとなごやかに微笑しあっていた。決して自己の内部世界まで壊そうとはだれも気がつかなかった。そして今、赤いレンガが崩れようとしているのだ。自分がこうしてここに居ていいのだろうか。--。自分が加害者であることに気がついたとき、吐き気よりすざましく吐き続ける。早くこの身体の中に貯えたものをピョンピョン取り出して捨てちまぇ。

また、西高の卒業式を巡っての「ぼやき」の一節が印象に残った。極めて「ノンセクト・ラジカル」的な発想である。

ふと思う。やっぱり予期できない瞬間をつくり上げなくちゃ、日常という連続は断ち切れないんだと。

『青色発光ダイオード』

テーミス編集部『青色発光ダイオード:日亜化学と若い技術者たちが創った』(テーミス 2004)を読む。
今年2009年はエコ商品が大変売れた年である。その中心の一つにLEDがあげられる。LEDバックライトを搭載した液晶テレビが話題を呼び、LED電球も商業ベースに乗ってきた。そのLEDについて少し知りたいと思い手に取ってみた。
数年前話題になった青色発光ダイオードの特許の帰属を争点に、元社員である中村修二氏が日亜化学に起こした裁判を巡る一連の問題を、日亜化学の側から丁寧に描かれている。後半は技術的な話題がほとんどでちんぷんかんぷんであったが、一人で技術開発をしたと吹聴し、ライバル会社のストックオプションを手にしながら元会社に訴訟を起こす中村氏のずる賢さ、引いてはアメリカ的な強欲主義が鼻についた。

『僕って何』

三田誠広『僕って何』(角川文庫 1988)を読む。1977年に単行本として出版され、芥川賞を受賞した作品である。
今度は団塊の世代の大学時代について知りたいと思い、十数年ぶりに読み返してみた。
十数年前、自分自身が学生時代に読んだ際は、小馬鹿にしながら読み捨てた作品であった。作者は、「連帯を求めて孤立を恐れず」をスローガンとした全共闘に馴染めない主人公を描き出すが、その主人公の抱える「弱さ」70年代以降の若者像を的確に言い当てている気がした。
主人公は大学の自治会のB派と活動を共にした際に次のように感じている。

 自分がデモ隊の隊列の中にいる。それはつい半時間前には考えられもしなかったことだ。だが、いま僕はここにいて、このデモ隊列全体を包んだ昂奮と熱気の中にぴったりととけこんでいる。僕は涙がこぼれそうになる。(中略)こうして腕をしっかりと組み合わせ、おたがいの肌のぬくもりが感じられるほど身体と身体を寄せあいながら、汗にまみれ同じひとつのスローガンをくりかえし叫び続けていると、何かこのデモに参加している百人、あるいはそれ以上の人間たちのすべてが、現実の社会体制に対する否定的な認識、というよりももっとなまなましい憎悪に似た感情によって結ばれ、ひとつにとけあったような感じに打たれる。それにこの前後左右から伝わってくる肉体の圧力のここちよさ--。

しかし、B派と他党派の内ゲバがあってから、次のように考え方を改めている。

 B派のデモに初めて加わったあの時、何か熱いものが自分の胸と身体ぜんたいをひたしていたような気がする。あの気持ちの昂ぶり、じっとしていられないほどわくわくとした、はちきれそうな意気ごみは、どこへ行ってしまったのだろう。あのシュプレヒコールとジグザグデモのスクラムの中で自分が感じていたもの、何か大きなひとつの流れのようなものにすっぽりと包みこまれて、自分というものがその流れの中にとけこんでしまったような、自分と自分のまわりの人間たちがぴったりと一つにとけあったような感じ、あの“感じ”をいつ自分は失ってしまったのだろう。
いま、こうして僕は、ただひとり、行くあてもなく街路をさまよい歩いている。ここに自分が存在しているということ自体が僕にとってやりきれない重荷だ。B派の中にも、全共闘の中にも、僕は自分の居場所を見つけだすことができなかった。この荷やっかいな“僕”というものを、いったいどこへ運んでいけばいいのだろう。

そして最後、闘争から逃げてきた主人公を母と彼女が迎える。そして母と彼女レイ子に挟まれて眠りにつく主人公は次のように感じる。

 レイ子にとって、そして母親にとって、僕とは何なのだろう。二人は僕のことをどう思っているのだろう。女たちの目に映った自分の姿をいろいろに想像してみる。一人前の“男”として映っているのか、それとも頼りない“子供”として映っているのか-。けれども、どんなふうに自分の姿を思いうかべてみても、あの大学の正門前でひとりたたずんでいた自分の姿とは重ならない気がする。あの惨めさ、やりきれない虚脱感、自分のふがいなさに対する怒りといらだち、そして空腹感。あのぶざまな自分の姿をレイ子や母親が一目でも見たとしたら……。
僕は思う。レイ子も母親も、ほんとうの“僕”というものを知らないんだ。二人ともなんにも知らないで、“僕”の話をしながら、“僕”の帰りを待っていてくれた……。

『まるでエイリアン』

中野収『まるでエイリアン:現代若者考』(有斐閣 1985)を旅の途中の居酒屋でパラパラッと読む。
私自身が中学生だった1980年代がどういう時代であったのか振り返ってみたいと思い手に取ってみた。
当時、法政大学社会学部の教授であった著者が、『なんとなく、クリスタル』に代表されるブランド志向や、女子大生ブーム、ウォークマン、『ぴあ』、少女マンガなど、当時を席巻した若者文化に対して、学問的観点から分析を加えている。特に60年代後半から70年代初頭の、いわゆる「全共闘」世代との対比から、当時の若者世相に迫っている。当時の若者は外部の権力に抗して自我をストレートに肯定し主張した全共闘世代に対して、外部との価値を絶って自我をぬるま湯的に育てている〈カプセル人間〉であると筆者は分析している。

特に1990年代後半以降の若者気質が変わったと喧伝されるが、その萌芽は80年代にあり、またその胎動は70年代に始まっているのである。

茨城・福島へドライブ

 
 

昨日で仕事納めとなったので、目的地のない独りドライブを楽しんだ。
とりあえず、茨城北部にある袋田の滝に行った。日本の三名瀑と称されるだけあって、なかなかの迫力であった。


袋田の滝からぶらぶらと当てもなくさまよった。途中茨城県最大と言われる小山ダムに立ち寄った。このような大きいダムが今現在必要なのだろうかと疑問を感じながら少しだけ散策した。
愛車ミラージュと一緒にパチリ。


小山ダムを下っていくと、石岡第一水力発電所の脇を通りかかった。案内看板によると、1911年(明治44年)に運用を開始した日本で一番古い現役の水力発電所ということだ。人気のないちょっと古めかしい建物から機械音が漏れてきていた。


川を下って、そのまま国道6号線を下り、福島県いわき市に入って、歌枕にもなっている勿来の関へ行った。着いた頃は辺りは薄暗く景色を楽しむことはできな かった。この勿来の関とは、「副詞の呼応」頻出の「な~そ」の意味が含まれることからも分かるとおり、古くから東国の外れの象徴として捉えられていた。し かし、この古来から歌われた勿来の関が実際に福島県いわき市にあったという確証はないようである。

 
いわき駅近くのビジネスホテルで一泊して、小名浜へ向かった。久しぶりに見る水平線、久しぶりに聞く波の音、そして久しぶりに嗅ぐ潮の匂いにほっとした。