月別アーカイブ: 2012年10月

本日の東京新聞朝刊から

本日の東京新聞朝刊に、日本各地に点在する耕作放棄地の太陽光発電への転用の記事が掲載されていた。
農林水産省によると全国の耕作放棄地は年々増加し、2010年現在1990年の約2倍の約40万ヘクタールにも及んでいる。そのうち発電に利用できるのは17万ヘクタールと見られるが、その全てを太陽光発電に活用した場合の発電量は年間約900億キロワットになり、約1600万世帯が1年間に使う電力量をまかなえる試算が出ている。しかし、農業以外への転用を制限する農地法の壁によって、転用が歩みが遅いのが現状だ。農業地域での発電は太陽光のほかに、農業用水の高低差を利用した小水力発電や畜産の廃棄物を使ったバイオマス発電なども広がっているようである。
PHP総研の佐々木陽一氏は次のように述べている。ついつい読み流してしまいそうな当たり前の内容の一文であるが妙に印象に残った

コメや野菜を育てるのと同じように、エネルギーも地域の資源を使って一次産業として生み出していける。農業との両立は可能ではないか。

『幸せのちから』

昨年の5月に地上波で放映された、ウィル・スミス主演『幸せのちから(原題: The Pursuit of Happyness)』(2006 米)を観た。
仕事や結婚生活に失敗し、息子とホームレス生活を強いられながらも証券業界に転職し、後に独立して大成功を収めたクリス・ガードナー氏の実際の過去半生が描かれている。

『ターミネーター4』

地上波で放映された、マックジー監督『ターミネーター4』(2009 米)を観た。
前作を映画館で観た時も話の繋がりが分からず仕舞いであったが、映像の迫力にただただ圧倒された記憶がある。今作もどこでどう話が繋がっているのか分からなかったが、とにかくカッチョイイ武器とド迫力は戦闘シーンに目が奪われた。残念ながら心までは奪われなかったが。

『スコットランドカップの奇跡』

ashotatglory

2年くらい前に地上波で放映された、『スコットランド・カップの奇跡』(2000 米)を観た。
話の舞台も映像のタッチも古めかしいので80年代前半くらいの映画かと思って観ていた。移転話が持ち上がる弱小サッカーチームが、監督の家族の確執が解けるに従って、プレミアリーグの常勝チームのレンジャーズに肉薄するまでに成長していく。サッカーという競技を巡って選手以外もチームワークを身に付けていくという内容である。
テレビ放映だったので30分ほどのカットがあり、少々ぎこちない展開となっていた。

『昔、革命的だったお父さんたちへ:「団塊世代」の登場と終焉』

林信吾・葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ:「団塊世代」の登場と終焉』(平凡社新書 2009)を読む。
1958〜59年生まれの著者たちが10歳ほど上の団塊世代を批判するというトーンでほぼ論旨が貫かれている
団塊世代の代名詞ともなっている全共闘運動については次のように辛辣な視点で述べられている。

全共闘運動経験者の大半は、マルクスの『共産党宣言』くらいは読んだかも知れないが、『資本論』はまず確実に読んでいないだろう。あんな騒々しい時代に、腰を据えて『資本論』など読む時間があったとは思われない。三里塚だ佐世保だと東奔西走していた活動家ほどそうだ。
それでも「闘争」に支障はなかった。いや、そもそも行動原理として必要だったのは、マルクーゼの「疎外」であったり、マクルーハンの「情報操作」といった、感覚を表現するキーワードだけだった。
その上に、叩きのめされてもなお立ち上がる矢吹丈の姿であるとか、決死の殴り込みに行く高倉健の姿を勝手に「反体制」に置き換えた、なんとも単純きわまりない闘争理論だったのである。

団塊世代は議論好きであると、よく言われる。たしかに好きなのかも知れないが、巷でよく耳にする彼らの議論とは、まるで「賎ヶ岳の七本槍」のような、学生時代の武勇伝や友情物語から一歩も出ていない水準のものが多い。体育会系のサークルにどっぷり漬かった学生時代を過ごし、社会に出てからもそのノスタルジー以外に語るべきものを持たないような人たちと、大差ないのである。

これもまた、彼らの行動原理とは子供にも分かる漫画で、その「吹き出し」にちょっと哲学用語や左翼アジテーションを入れてみただけなのではないか、と疑いたくなる理由なのだ。

筆者は、団塊の世代を「サブカルチャーにはじまり、終わった世代」「亡国の世代 やり逃げの世代」と称し、自分たちの世代が冷や飯を食わされてきたことを恨み節のように展開する。

世代でカテゴライズし物事を図るのは血液型と同じくらい短絡的な発想だと思う。しかし、私の身のまわりにいる現在60代前半から半ばの世代の方々をみていると、個人的には納得してしまうところが多々あった。