春日武彦『不幸になりたがる人たち:自虐指向と破滅願望』(文春文庫 2000)を読む。
大変示唆深い本であった。人間は得てして不幸になりたがるという「えっ」と思う前提条件から話は始まる。「人間誰しも幸せを望む」と私たちは道徳の授業で教わるが、人間の心理の本質はこれと逆行するものであるというのだ。
より悲惨で、より大きな不幸を未然に防ぐべく、差し当たって小さな不幸を自ら引き起こして事態を収めようといった心の働きないしは精神構造が誰にもア・プリオリに備わっているのではないのか。(中略)たとえ悲惨であったり不幸であろうと、それが具体的であればかえって安心感につながる場合がある。曖昧であったり不確定であることは、何よりも人の心を不安に駆り立てる。ペンディングを強いられるよりは、なんらかの現実的で具体的な事象に直面するほうが心の負担が少ないと考える人々は多い。人間がどこか不幸とか悲惨とかを求めてしまうのは、本来はある種の精神的な防衛機構に由来しているのではないかと、私は空想するのである。ただしそれを証明することは、むしろ文学の役割であるのかもしれない。
著者はこのように述べ、あえて抱えきれない仕事をこなしたり、積極的に病気になろうとしたりしてせっせと人生のマイナス点数を消費し、安心感を得ようとする人たちの心理を分析する。そしてそのような主体的被害者の心理について次のように分析する。かなり長いが引用してみたい。
殊に被害者意識が厄介なのは、それは二つのものを求めてやまないからである。その一つは「敵」であり、すなわち自分に被害者意識を抱かせるに至らしめた悪玉の存在を必要とするということである。ところが被害者意識というものは、実はたんなる不平不満や妬みや独善が偽装をしたに過ぎないことが多い。そうなると真の敵とは実は自分自身ということになるが、そんなことを素直に認めるわけにはいかないのが人間の心情である。無理にでも敵を作り、悪玉を見出そうとする。 そして被害者意識が求めるもうひとつのものとは、「特権」である。ワタシハ弱者デアリ苦シメラレテイル立場ニアル、ダカラワタシハ世間カラ労ラレ優遇サレルノガ当然デアル! といった一種の権利要求にほかならない。かれらは世の中に対してなんらかの「貸し」を作っているような気持ちを多かれ少なかれ抱く。
では、そんな不安定なものを内包した被害者意識を心に持つのは、苦痛なことなのであろうか。とんでもない。さきほど述べたように、押し隠されたサディズムと、歪んだマゾヒズムと、安っぽいナルチシズムとが充満しているのだから、珍なる味がするのである。決して本人は認めようとはしないけれども、この味に酔う人は少なくない。
さきほどわたしは、被害者意識は常に「敵」を求めてやまない、と述べた。敵ないし悪玉を想定することで物事は一気に単純明快となり、被害を受けている「ワタシ」は正当化され、しかも労られ特別扱いされるべき存在と化す。人によっては被害者意識によってはじめてアイデンティティに目覚めることが可能となる。そして「ワタシ」の心に宿っていた攻撃性は、「これさえなければ……」「こいつさえいなければ……」といった生々しい思い込みへと形を変えていくのである。我々の心の働きにおいて興味深いことのひとつは、いかなる関心や興味もそれは比較的速やかに形骸化してしまいがちということである。ただ単に関心や興味が薄れてしまうだけなら、せいぜい飽きっぽいとか淡白とかということだけの話になろうが、希薄化しないままいつしか対象を縁取っている「形式」だとか対象にアプローチするための「手段」のほうが目的の座についてしまいかねない。
つまり人間は死やぼんやりとした不安、取り返しのつかないような失敗を恐れるがために、不幸な行為に没頭すると述べるのだ。ここでいう「不幸」とは他人から同情をさそうような忙しさや立場、病気のことである。私自身ぴったりと当てはまることが多いので、いささか気分が害するような論である。カウンセリングの入門書にも同様のことが書いてあったと記憶するが、自己分析の公式にはよいだろう。しかしこのように人間の心理を定義してしまったら、人間のあらゆる営みー特に反戦運動や労働運動ーが、自己防衛の現れであり、「悪玉」作りと読み替えられてしまう危険性がある。作者はこの本の中で解決策を提示しない。
この過酷な人生を乗り切っていくために、誰もが無意識のうちにいくつかの方策を用意している。ひとつは、運命とか運勢といった人間にとって不可知かつ不可抗力のものを受け入れ納得するためのロジックであり、それは迷信やジンクスもどきのひどく私的な「法則」であったり、ある種の人生訓や箴言や、それを大真面目に口に出したら妄想としか受け取られないような認識であったりする。もうひとつは、ひたすら現状維持を図って不幸をも馴れ親しんだものとし、さながら周囲に擬態した昆虫のように悩みや苦しみの輪郭を曖昧にしてしまうことである。そして、さらにもうひとつは、とにかくこれ以上の危険や不安と対立しないですむように、手っとり早く小さな不幸を具現化させて大きな不幸をやり過ごしてしまおうといった心の働きである。ヒトはいとも容易に「これさえなければ……」といった罠に囚われる。これさえなければといった発想は、当人にとってはきわめて切実かつ論理的に思えてしまう。だがそんな勘違いの論理に拘泥している限りは、何の解決ももたらされない。「これさえなければ……」とこだわりつづける人たちは、すなわち「窮屈な永遠」の住人なのである。けれどもそのことに、当人はなかなか気づくことが出来ない。そういった点においては、狂気もこだわりも大差はない。地球ではなく砲丸の上に立っている人が、世の中にはいかに多いことだろう。
筆者はこのように後味の悪い結論しか残さないが、このような心理は作者を含めて誰しもが持っているものであり、そうした人間を面白いと捉え直すことが大切だと読者にメッセージを残す。引用ばかりになってしまったが、私自身が心理分析を受けたような心持ちがしたので、あえて載せてみた。