年末の最後の夜、年越しのカウントダウンが始まる1分前に、桐野夏生『OUT』(講談社 1997)を読み終えた。
登場人物の心の動きが丁寧に描かれており、サスペンスとも純文学とも言える中身の濃い作品であった。幼子を抱えた主婦が、家庭を顧みない夫をもののはずみで絞め殺す場面から物語は始まる。そして、事件を隠ぺいしようと画策する主婦のパート仲間と、事件を契機に一儲けしようとする男達の心の闇が話の展開とともに浮かび上がってくる。2002年に映画化されたそうだが、せっかくの読後感をぶち壊したくないので見ないことにしよう。
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『なぜ男はギャンブルに走り、女は占いにハマるのか』
和田秀樹『なぜ男はギャンブルに走り、女は占いにハマるのか』(青春出版社 2001)を読む。
インパクトのある表題についての内容は全体のごく一部で、ストレスが引きがねとなった買い物や結婚、引きこもりなどの日常生活における行為を取り上げ、分かりやすく解説を加えている。
この中で、本題とは少々逸れるが、教育に対する著者の意見は興味深かった。これまでの学校現場では、テストの点数や偏差値の向上でもって単純に生徒を誉めることができた。生徒の方も、ちょっと机に向かって勉強して成績の数字が上がれば、教師からも親からも評価されるというカラクリが分かっていて、勉強ができる子どももできない子どももそれなりに他者からの評価を得ることができた。しかし、現在は勉強だけでなく、勉強に向かう態度や他者との協調性という数値でははかり切れない主観的なモノサシで子どもを図ろうとする。現行の学習指導要領にも明記されている。だが、そうなると「人柄」という周囲の目線そのものが評価につながり、生徒にとって大変なプレッシャーとなってしまう。そして、客観的な基準がないから、いつまでも自分を肯定できず、健全な自己愛が育たないと著者は述べる。
最後の項において、著者は人間を大きく、「自分」主体で物事を判断する「メランコ(うつ病型)人間」と、「他人」主体で行動を決定する「シゾフレ(分裂病型)人間」に分ける。そして、現在の日本人は、付和雷同型の「シゾフレ人間」が増加しており、個性重視の合唱の中で、他人と同じ行動を取りたいと考える傾向が特に若者の間で増えていると指摘する。しかし、「他人が私をどう見ているのか」「他人はどれを良いと言うの か」と他人の価値に依存していくと、物事を善悪のどちらかでしか判断できない二元的思考(「ボーダーライン的心理」)しかできなくなり、そのことで、簡単に仮想的を作って内部でまとまろうとしてしまう危険な集団心理に染まりやすくなってしまう、と著者は警句を発する。
『言語聴覚士・視能訓練士・義肢装具士になるには』
小松富美子『言語聴覚士・視能訓練士・義肢装具士になるには』(ペリカン社 2003)を読む。
特にST(言語聴覚士)の仕事内容について知りたいと思い読んだのだが、実際の仕事の奥深さにびっくりした次第である。想定内の、脳卒中で言葉を失った中高年に対する言葉の訓練だけでなく、嚥下の訓練や食道発声法まで含めた咽喉全体に関する分野まで指導するのである。マニュアルのない、なかなかの根気が求められる仕事である。
今日の東京新聞朝刊一面
今日の東京新聞朝刊一面で、八王子で米兵が男児3人ひき逃げ事故を起こして逮捕されたのだが、米軍の方から「公務証明書」が出され、日米地位協定に基づき即日、米軍に引き渡した、というニュースが報じられていた。記事の中で「普天間基地爆音訴訟」を率いる原告団長の島田善次さんの言葉が歯切れよい。
本土も沖縄と同じだな。沖縄では同じような事件がこれまで何度も起きているが、地位協定を盾にして、加害者の兵士は何も罪にとがめられるどころか、帰国してしまった者もいる。日米の軍事再編が問われる今、やすやすと加害者の兵士を逃してしまうような政権に対して、国民はもっと怒りの声を上げてほしい。
日本はこのような治外法権にも近い不平等な地位協定にいつまで縛られなければならないのだろうか。冷戦後の軍事の枠組みという「大文字政治」はよく分からないが、このような日常的な事件を真摯に関心をもって見ることで、問題の本質の一端が顕れ出てくるのである。
さて石原東京都知事はこの事件で年明けにどのようなコメントを出すのであろうか。民主党前原党首の目には、中国軍と米軍のどちらがより脅威に写るのだろうか。年末の忙しさで事件自体を忘れてしまいそうだが、この問題に対する各界の視座に注目したい。
「論壇時評」
本日の東京新聞夕刊の「論壇時評」というコラムで、宮崎哲弥氏が小泉政治の対抗軸についての展望について言及している。宮崎氏は、小泉型「構造改革」政治、「新しい自民党」路線に対するオルタナーティブ(もう一つ別の政治路線)の一つとして、道場氏の提案するネットワークやコミュニティなどを重視した「下から」の公共性の醸成に可能性を見出している。(以下転載)
例えば、社会運動史家の道場親信氏は「『国家の言うままにならないという記憶』(鶴見俊輔)を分かちもつコミュニティ」の探求あるいは模索のなかから、ネオリベラリズム的「改革」への対抗理念を掴み出す可能性に賭けている(「〈戦後〉そして歴史に向き合うことの意味は何か」『論座』)。
その具体的な戦略とは、例えば政府や地方自治体に対する「『コミュニティ』再建のための費用負担要求、『公民』としての権利要求」であり、道場氏はそうしたムーブメントがやがて「国家を揺さぶる力」になり、「新たな『連帯』の『伝統』を作り出す」ことを期している(「『戦後』と『戦中』の闇」『現代思想』12月号)。