もうそろそろ、今年も終わる。
私にとってはいろいろとあり長い一年であった。
春先に結婚をして生活環境が変わり、また夏にかけて大学入試以来の集中した勉強をする中で、働くことの意味を自分なりに整理することができた一年であった。来年の今ごろは何を考え、何に取り組んでいるのだろうか。まだ働くことの意味と目的を自分なりに総括できていないが、「30代前半が物事を考察するのに一番すぐれた時期だ」という説を信じて精進したい。
もうそろそろ、今年も終わる。
私にとってはいろいろとあり長い一年であった。
春先に結婚をして生活環境が変わり、また夏にかけて大学入試以来の集中した勉強をする中で、働くことの意味を自分なりに整理することができた一年であった。来年の今ごろは何を考え、何に取り組んでいるのだろうか。まだ働くことの意味と目的を自分なりに総括できていないが、「30代前半が物事を考察するのに一番すぐれた時期だ」という説を信じて精進したい。
斎藤典雄『車掌だけが知っているJRの秘密』(アストラ 1999)を読む。
前半は中央線の車掌として検札のつらさや遅刻や事故の際のどたばたが微笑ましく描かれているのだが、後半は国労の組合員として会社からの差別に闘い、東労組のいじめに耐える国労組合員の悲哀に満ちた日常が淡々と述べられる。
著者には「断固闘う!」といった闘争団の意気は薄く、1047名の闘争団との距離感を正直に吐露している。そして、下記のように著者は国労本部に対する批判を述べる。その中で、著者は乗客の安全と安心を第一としながらも、仲間同士笑いながら、飲みながらやっていける労働者本来の職場を目指す足がかりとして再び国労を選びとっているのだ。
問題は「闘う」がドグマとなることだ。誤解を恐れずにいえば、いつも活動家だけが固く結束し、お決まりの寝言のような演説をぶち、盛り上がっているだけなのだ。国労の組織は激減し、弱体化したのは事実なのに、活動家は、「一人一人の団結と闘う意識はより強固なものになった」などといい切る。私はそう思わない。不当な差別が長期化し、自分の利益にならないからと脱退していく一般組合員があとをたたないのが現状だ。国労は彼らを責めてはいけない。もうたまらん状態なのだ。もしここで強硬な戦術でも打ち出したりすれば、組織は再び大混乱に陥り、団結は崩れ、脱退者は増える一方だろう。正しい理論が必ずしも統一した実践に結びつかないのが運動の難しさなのだ。
読売新聞運動部『誤解だらけの大リーグ神話』(中公新書ラクレ 2002)を読む。
日本では、大リーグというと「夢と希望が溢れ、地元に密着し、ファンを大切にするベースボールの神髄」と、日本球界への批判を交えながら半ば神話的に報道される。しかし、実態はニューヨークヤンキースなどの一部の金満集団とエクスポズなどのテレビ報道もない地方の球団の格差がますます広がっていく優勝劣敗の世界であることが見えてくる。
広岡裕児『「皇室・王室」がきちんと分かる本』(オーエス出版 2002)を読む。
手に取りやすいようにとの配慮のためか、一文一文で丁寧に改行してあるのだが、かえって読むリズムが崩れてしまい内容がいまいち頭に入らなかった。
内容的にはベルギーや英国のロイヤルファミリーと比較しながら、主観をあまり交えずに淡々と皇室の仕組みや歴史を述べる。著者の立場は下記の引用に表れている。
現在の祝日の多くが天皇絡みだというのは良く知られていることである。「みどりの日」は「昭和天皇の誕生日」、「文化の日」は「明治天皇の誕生日」、新嘗祭が「勤労感謝の日」、春分・秋分の日も天皇家の祖霊の降霊祭に端を発する。そして、2月11日の「建国記念日」は戦前の「紀元節」で神武天皇が即位したとされる日が元になっている。この紀元節は1958年に復活したのだが、これに三笠宮崇仁親王が歴史学者として国家が法的に決定するのに反対を表明して話題になったという話が興味深かった。三笠宮氏は「文藝春秋」1958年2月号で、日本の先史時代を概観した後、神武天皇即位が後代の作為でありそれを太陽暦にあてはめた2月11日も架空の日であるとして、「日本紀元二千数百年という思想は決して古来から存在したものでないこと、それはむしろ西暦紀元の輸入に伴って明確化した考え方であった」と断定している。
皇室典範もふつうの法律の一つです。法律は国会で決まります。内閣総理大臣は国会が指名します。ですから、天皇をどうするか、皇室をどうす るかは国民一人一人の問題です。たとえ憲法改正論議が出てこなくても、いつでも身近な問題なのです。すべては国民のてに委ねられています。思えば、天皇や皇室の存続とあり方はときの権力者の手中にありました。いま国民主権になって国民全体が権力者になりました。ですから当然のことなのかもしれません。
ふとした事で、生きるという意味を突きつけられた。生きる楽しさが見つからないから死んだほうが良いという意見に対して、どうすれば明確な批判ができるだろうか。
トマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?』(昭和堂 1993)を読んでみた。
大学の哲学の授業のテキストにも使われる哲学の入門書である。人間の心は結局、他者性に欠けたその人の主観に属するものであり、道徳や正義はその人の心に内在するものだということを丁寧に証明する。そして、著者であるネーゲル氏は、生きる意味を自分の外部の神や社会に求めても結局は堂々巡りに終わってしまうことを明らかにした上で、次のように生きる意味をまとめる。
たとえ、人生が全体としては無意味であったとしても、だからと言って何も心配することはないかもしれません。もしかすると、私たちは、人生が無意味だと認めながらも、以前と同じように生き続けることができるかもしれません。そのために必要なコツは、あなたの目の前にあるものだけに目を向け、正当化はあなたの人生の内側や、あなたに関わりがある人たちの人生の内側で終わるのだ、と認めてしまうことです。もしあなたが「でも、一体何のために生きているのだろう」と自問するならば、あなたは、こう答えるでしょう。「目的なんか何もないさ。もし私がいなかったとしても、あるいは、もし私が何も気にかけなかったとしても、大したことではないだろう。それでも、私は存在しているし、気にもかけている。それだけのことさ」。