内田康夫『鏡の女』(角川文庫 1990)を読む。
1987年(昭和61年)に「週刊小説」誌上に発表された短編で、表題作の他、『地下鉄の鏡』『透明な鏡』といずれも鏡に纏わる作品が2編収録されている。
あとがきの中で著者自身が短編が苦手と吐露しているが、3作とも旅情とも歴史とも無縁の短編で、陳腐なミステリー小説に過ぎなかった。読んでいても全く作品世界に入り込むことが出来なかった。
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レイクタウンまでサイクリング
『貧困と愛国』
雨宮処凛・佐高信対談集『貧困と愛国』(毎日新聞社 2008)を読む。
建前としての平等や反戦平和を金科玉条とする「戦後民主主義」に反発を感じ右翼活動から左翼活動へと転向した雨宮さんと、戦後民主主義の権化ともなっていた日教組に背を背け執筆活動に入った佐高氏が、プレカリアート運動や右翼団体、左系の団体について奔放に語る。雑誌の対談だったのか、内容的には散漫であったが、雨宮さんと佐高氏があけっぴろげに経歴を語る件は興味深かった。
屋内遊園地
『木のいのち木のこころ(地)』
小川三夫『木のいのち木のこころ(地)』(草思社 1993)を読む。
高校を出て法隆寺の宮大工であった西岡常一の弟子入りしてから、自身が棟梁となり弟子を取るまでの成長の半世紀が語られる。
宮大工というのは、建物が出来上がってから200年、300年経ち、木がうまい具合に縮んだり風合いが出てきたりして完成を迎える息の長い仕事である。そのため、機械や知識よりも、職人の手作業による技術や勘の継承が求められる。
すぐに結果を求め方法論に走りたがる私たちへのお叱りの言葉が綴られる。数年後もう一度読み返してみたい本であった。
大工がわからんことがあったら法隆寺に行けばいい。木で建物を造るということはどんなことかを教えてくれるから。それにしても俺は思うんだけど、新しい機械が作られて技術が進むと、その分だけ人間の能力は劣っていくもんだな。これから先も便利なのがいいって言い続けたら、どうなるかと心配だ。とくに俺たちみたいに手の記憶で仕事をする人間がそうなったらと思うと、ぞっとするな。法隆寺は技術の進歩が進んだときへの警告かもしれんな。