月別アーカイブ: 2003年8月

万景峰号と甲子園

今月は少し時間の余裕があったのでテレビを何ともなしに眺めている時間が多かった。その中で2つのニュースが気になった。

1つは北朝鮮と日本を往復する貨物船万景峰号の騒ぎである。まさに事件そのものよりも,マスコミが事件を創り出してしまう恐怖を実感した。拉致問題と貨物船問題というベクトルの違う問題を怒号と涙で一緒くたにされてしまった。複雑な事件ほど善悪,功罪をきちんと分けて見ていく必要がある。そうした物事を冷静に捉えようとする視聴者の「思考」を停止してしまうテレビの力は恐い。

2つめは甲子園での今治西高校の曽我選手の件だ。マスコミの側が懸命に努力物語を作ろうと取材を重ねているが,本人は極めてクールであった。その分だけマスコミ側の滑稽さが際立った。彼は「(障害のある人たちへの)励ましのために野球をしているわけじゃないけど,何か感じてくれるのはうれしいです」と語ったそうだが,日本におけるバリアフリーも新しい段階に来たのではないかと思った。肩肘張らず,「優しさ」を切り売りする形ではないボランティアの形態も生まれてくるのではないだろうか。

『長い長い殺人』

宮部みゆき『長い長い殺人』(光文社 1992)を読む。
『模倣犯』とよく似た作品で,社会にうまく適合できなかったがために,社会への恨みを抱く犯人が,自らの自尊心を守らんがために,殺人を企てるという現代的な理由なき殺人事件である。
ちょうど高校の教科書の定番作品である,自らの才能を信ずるがゆえに社会から離れていきついには虎に変身してしまう男の独白を描いた中島敦の『山月記』の現代版といったところか。犯人の描く社会像があまりに断面的で偏狭的なものであり,またそれゆえに,犯人像が大変に匿名性が高いという現代的な恐怖が基調として流れている。

『数学物語』

矢野健太郎『数学物語』(角川文庫 1961)を読む。
数の概念からパスカル,デカルト,ニュートンまで,歴史的にコンパクトに分かりやすく解説しており,数学の苦手な私も気楽に読み流すことが出来た。私たちが普段とりとめもなしに使っている零という数字がインド人によって発明され,極めて画期的なことであることが分かった。数学というよりも世界史の参考書として読むのもいい。

『1945年8月6日』『東京が燃えた日』『ナガサキ』

今月戦争に関する本に触れたいと,岩波ジュニア新書を3冊読んだ。

伊東壮『1945年8月6日:ヒロシマは語りつづける』(岩波ジュニア新書 1979)
既に58年も前のことで教科書の上の「出来事」に過ぎなくなりつつあるが,戦争を語りつづける,そして平和を希求し,行動を続けることこそが,戦後生まれの私たちに課せられた「戦後責任」である。中高生向けの本であるが,改めてアメリカの陰に隠れやすいウィンストン・チャーチルの原爆投下責任などについて考えさせられた。極東における覇権を得んがためにソ連参戦前に原爆を用いたアメリカの責任と,国体護持のために戦争を長引かせた天皇,軍部そしてマスコミの戦争責任に対する批判的な視座は何度も確認されてよい。

早乙女勝元『東京が燃えた日:戦争と中学生』(岩波ジュニア新書 1979)
1945年3月10日未明,たった数時間で10万人もの命が消えていった東京大空襲を当時中学生だった著者の目を通して忠実に描かれている。日中戦争での,日本軍による南京大虐殺,重慶への無差別爆撃と考え合わせながら,無差別攻撃の犠牲者の冥福を祈らざるを得ない。
東京大空襲の遂行責任者であった第21爆撃機軍団司令官カーチス・E・ルメーは戦後,米空軍参謀総長にまで就任している。そのルメーは1964年埼玉県の航空自衛隊入間基地に立ち寄った際,天皇と日本政府から「勲一等旭日大綬章」を受け取っている。綬章の理由は,ルメー大将が「日本の自衛隊建設に非常な功労があったから」というのが,衆議院予算委員会での佐藤栄作の答弁である。全くふざけた話である。戦後責任はまだ果たされていないことをつくづく実感する。

長崎総合科学大学平和文化研究所編『ナガサキ:1945年8月9日』(岩波ジュニア新書 1995)
8月9日の惨事だけでなく,江戸時代からの長崎の歴史,そして戦後の原水爆禁止運動にも紙幅を割いている。1960年前後から,中国ソ連の核実験の評価を巡って総評・社会党の原水爆禁止国民会議と共産党系の原水爆禁止日本協議会に分裂したのだが,国会の政治運動に反核平和運動が歪められたことに対する怒りは強い。

□ 原水爆禁止国民会議公式サイト

□ 原水爆禁止日本協議会公式サイト

『ケータイの中の欲望』

松葉仁『ケータイの中の欲望』(文春新書 2002)を読む。
自動車電話やポケベルといった80年代以前の技術から90年代に入って携帯電話がどのような需要のもとに進化していったのかということを時系列的に分かりやすく解説している。
しかし第三世代携帯電話が普及した今,既にケータイは「携帯」通信端末としての機能を終え,メールや映像を含めた広範囲なコミュニケーション文化の中で,待ち受け画面や着メロといった「(消費文化の中における)個性」を示す分かりやすい象徴となるだろうと著者は指摘する。

技術は人々の欲望の延長線上に存在意義を認める。技術の必要ではなく,欲望の求めるところに従わないと,その技術は市場を獲得することはできない。携帯電話の技術もまた例外ではなく,人々の欲望のいきつく先を常に実現することで進化してきた。だが,いつでも・どこでも・誰とでもコミュニケーションがとれる携帯電話の技術も,もはや人々の欲望の先を読めないでいるのではないだろうか。
なぜなら,人々のコミュニケーションは,いつでも・どこでも・誰とでもが当たり前になり,それ以上の方向性を見出せないでいる。その意味で,携帯電話の技術の進化は崖っぷちに遭遇しているような気がする。技術は進化するが,その技術と欲望とが適合しない。そんな時代を携帯電話は迎えている。