ここしばらく脳の前頭葉が麻痺したような日々を送っている。下の子どもと一緒に暮らすようになって一週間が経った。2、3時間ごとの夜泣きのたびに眠りが妨げられるので、体は元気なのだが、思考回路が凍り付いてしまった鬱病のような朝を迎えることになる。日中もぐずついてばかりなので土日もゆっくりできない。今年は高校3年生を担当しているので、小論文絡みの新書などをバンバン読んでいきたいと思うのだが、子ども二人をお風呂に入れて寝かしつけまでしていると、一日の疲れが出てぐったりである。
あと2ヶ月もすれば楽になると自分に言い聞かせているのだが、ぼーっとしている頭では願掛けすらあやふやである。
月別アーカイブ: 2009年5月
『時代を読む』
本日の東京新聞朝刊に掲載されていた、内山節氏のコラム『時代を読む』を写経ならぬ「打経」してみたい。
今日の私たちの気持ちのなかに、ひとつの根源的な不安がひろがってきているような気がする。それは近代以降つくりだしたさまざまなものが、持続性を失いはじめているのではないか、という不安である。
現在のような経済活動や生活をつづけていれば、環境や資源問題をとおして、いつかは世界は破綻していくだろうという予感は、いまでは多くの人々のなかにひろがっている。はたして持続可能なのだろうか。現在の年金制度は持続可能な制度になっているのか。
さらに最近では次のようなことも、検証しなければならなくなってきた。たとえば液晶テレビや半導体などの分野では、大量生産体制を確立し市場では大きなシェアを獲得しても、利益が上がらない構造が慢性化している。これは一過性のものなのか、それとも、大量生産によって市場支配権を確立していくという経営モデルが、安定的に持続する経営モデルではなくなりはじめたことを意味しているのだ。
このように考えていくと、今日とは、これまでの経済、社会、政治、さらには私たちの生活のあり方までが、将来への持続性や継続性を失いはじめている時代のように思えてくる。いまでは若者の四割近くに及ぶ非正規雇用の人々は、自分の労働が持続性をもっているとは考えていないだろう。そして持続性を信頼できなくなった社会では、不安や動揺、頽廃がひろがっていくことになるだろう。
今日の人間たちは、持続する仕組みをつくりなおさなければいけないという、大きな課題を背負っている。
ところでかつての社会においては、持続は何によって保障されると考えられてきたのであろうか。それは信用とか信頼といわれるものによってであった。たとえば農民は、自然や地域社会との間に信頼関係が築けるとき、持続する農家でありつづけることができると考えてきたし、街の商人や職人、手工業者たちも、客や同業者、地域の人々の信用を高めていくことが、自分たちの仕事に持続性をもたせる基盤だと考えてきた。
日本の資本主義はこの精神を受け継いできた。だから終身雇用制によって経営者と労働者の信頼関係を築こうとしたし、信用される仕事、信用される製品づくりというようなことが、たえず語られながら展開してきた。
もうひとつ大事なことがあった。それは継続のためには、社会変化に柔軟に対応する自己修正能力をもつ、ということである。「持続する」とは「変わらない」ということではなく、必要とあれば変えていく力を内部にもっているということである。
そんな目で今日の時代を見ると、どのように映るだろうか。経済では、長期的な信用よりも短期的な利益をめざす経営がグローバル化の名のもとに世界にひろがった。政治も社会も私たちの暮らしも、自己修正能力を失って、方向性をみいだせずにいるような気がする。失業者を農業や介護にまわせばよいといった、数合わせだけの論理が堂々と語られたりするのも、自分たちの社会を根本的に修正しようとする意志が失われているからであろう。新しく農業や介護につく人とともに、どのような持続する社会や暮らしをつくっていくのか、そのためには何を変えていったらよいのかという視点が、ここにはない。
私たちは現在、持続する働き方や、持続する社会、暮らしをみつけ直さなければいけない時代を迎えている。
はたして、内山氏は「持続する社会」の理想をどの時代に求めているのだろうか。彼自身群馬県上野村に生活の拠点を置いており、農山村的な生活を暮らしを基準に置いているのだろうか。それとも江戸時代の社会を想定しているのか。20世紀的な高度経済成長をモデルとしているのか。この文章からは判然としないが、現在の社会の問題点はうまく整理されている。
『輪(RINKAI)廻』
2000年に松本清張賞を受賞した、明野照葉『輪(RINKAI)廻』(文春文庫 2003)を読む。
嫁姑のねっとりした人間関係が蔓延る新潟や茨城の田舎と、金の絡んだギスギスした人間関係が支配する新大久保を舞台に、殺された女性の怨念が血を通じてよみがえるというホラー小説である。テンポ良く話が展開し、文章も練られていて読みやすかった。
『新聞がなくなる日』
歌川令三『新聞がなくなる日』(草思社 2005)を読む。
元毎日新聞の記者が、韓国や米国での新聞の衰退とネットの普及の現状を紹介しながら、あと20年近くで日本でも紙の新聞は消え去り、インターネットを通じたジャーナリズムのみが生き残ると占う。
米韓では、紙の新聞は「老壮年」「保守派」、一方でブログなどの電子ジャーナリズムは「若者・盛年連合」「左翼」といった棲み分けがなされ、社会変革や政権交代の大きな原動力になったと著者は肯定的に述べる。
しかし、日本では紙の新聞は「戦後民主主義」「左翼」であり、「2チャンネル」を代表とするネットでの発言は「民族主義」「新右翼」的な体質となりやすい。ここには日本の新聞社の良識や日本人のインターネットリテラシー、日本語自体の問題など様々なファクターが絡んでいそうだ。
『人のセックスを笑うな』
第41回文藝賞受賞、山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出書房新社 2004)を読む。
美術学校に通う19歳の男性の主人公と、39歳の女性の講師との体と心の恋愛の微妙な差異を描く。
しかし、自分の経験が薄いためか、私はこの手の学生の恋愛ドラマが総じて好きではない。表現は下記のように詩的で繊細であったが、大して面白くもない話で、ペンネームとタイトル以上の驚きはなかった。
電話なんて温度だ。
言葉は何も伝えて来ない。
ただ温度だけは伝えられる。
オレは、ユリの温度の低いのを感じた。
必要とされていないことが、ひしひしと伝わってきた。