月別アーカイブ: 2005年8月

『中国行きのスロウ・ボート』

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』(中央公論社 1983)を読む。
純文学の雰囲気が漂う、著者の初の短編集である。現実世界の消費社会システムにすっかり組み込まれてしまった「僕」の、現実に対する違和感や人生に対する不安感がテーマとなっている。しかし、その言葉になりにくい「僕」の「嘔吐」にも近い違和感を強調するあまり、一般の読者にはほとんど理解不能なほど難解なプロットになってしまっているのが残念だ。

『一般教養のための音楽』

短かった夏休みも明日で終わりだ。ここ一週間ほど家で心身をとことん休めたが、明後日より普通に仕事が始まる。
先日より電子キーボードを購入して楽譜とにらめっこしながら「メヌエット」の練習をしている。およそ絵にならない光景が繰り広げられているわけだが、本人はいたって真面目である。しかし、家族の評判はすこぶる悪い。

林幸光『一般教養のための音楽』(音楽之友社 1969)を読む。
音階や和音の成立の歴史について丁寧に解説されており、へ理屈好きには興味深い内容となっている。ヨーロッパでは長音階と短音階の使い分けが普及してから管弦楽が発達したと著者は述べるが、その見解は奥が深い。

『東京大学物語』

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『まじかる☆タルるートくん』などの作品で知られ、テレビにもよく出ている漫画家江川達也氏に最近興味を覚え、深夜に妻と二人で、近所の国道16号沿いの漫画喫茶に出掛けた。
「漫画喫茶」の看板が掛けられているが漫画はあまりなく、パソコンや衛星放送、プレイステーション、ビリヤードなど暇つぶしの機器が所狭くならんでいた。冷房ガンガンの寒い個室の中で、2時間近く『東京大学物語』という漫画を読んできた。とある函館の偏差値の高い高校が舞台で、東大合格を人生の至上目標とする受験生村上直樹くんが、過剰なストレスのため、自意識の世界で繰り広げられる恋愛と妄想に振り回され、現実感がゆがんでいく様子がリアルに展開されていた。
あいにく第3巻までしか読むことができなかったが、漫画ならではの読者の予想を常に裏切るストーリーにはまってしまった。何とか時間をやり繰りして全巻読破してみたい。

『国境の南、太陽の西』

本日も昼過ぎに起きて、一日悶々として過ごしていた。新書も読みたくないし、小説も読む気がしない。何かエッセーでも読みたいと思って、本棚を物色していたら、村上春樹『国境の南、太陽の西』(講談社 1992)が目に入り読んでみた。
冒頭の出だしが「僕が生まれたのは一九五一年の一月四日だ……」と、主人公の設定が著者のプロフィールとほとんど変わらないものだったため、最初はエッセーだと疑わず三分の一ほど読み進めていってしまった。30代後半という人生の中年に差しかかって、「国境の南」というこれまでの、そしてこれからの人生とは別の未だ見ぬ世界への憧れと、また、「太陽の西」という惰性的な日常生活から抜け出す衝動に駆られてしまう男の心理が底を抉るように描かれている。
下記の主人公の妻に対する言葉を読みながら、私も自分の来し方行く末を考えた。明け方、妻の寝ている隣の部屋を見やりながら、私も太陽の沈む西に向かってある日歩み始めるのだろうかと、漠とした将来に対しての不安が脳裏をよぎった。

僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕は違う自分になることによって、それまでの自分の抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくはこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。

『成功する読書日記』

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共立女子大文芸学部教授鹿島茂『成功する読書日記』(文藝春秋 2002)を読む。
大学でフランス文学について教鞭を取る著者が、雑誌に掲載された自らの読書日記をまとめた本である。フランス文学から思想、歴史、戦争と、とにかくそのカバーするジャンルは広い。一日数冊というべらぼうな「量」で活字の山を制覇している。学生時代に読んだ中野重治の獄中日記を思い出した。

まことに博覧強記な著者であるが、読者に勧める読書のあり方はいたってシンプルだ。とにかく、読書の「量」をこなすこと、そして簡単でいいからその本と遭遇した時の情報を残すことの2点である。まずは自分が興味を持っているジャンルの本を徹底して読み続けること。そして、いつ、どの書店で、どのような形でその本と出会ったのか、本そのものとの出会い情報を残しておくことである。本との出会いを自分の日常生活体験の中に位置づけることで、それまでの読書の軌跡が意識に上り、次の読書意欲が換気されるという。また、本を読み終えたら、その本のエッセンスとなるような箇所の「引用」と、物語や思想を自分の言葉で言い換えて「要約」を習慣づけて行うことで、文章理解能力の基礎が固められると述べる。
確かに他者性のない文章を書き連ねている私にとって耳が痛い話しである。これを契機に少し要約を練習していけたらと思う。

読書日記や映画日記を続けていると、いつしか、コレクションが「開かれる」という現象が起こってきます。それまでは、一つにジャンルに集中していたものが、あるときそこに夾雑物がまじりこんできて、その夾雑物が次のジャンルを導くのです。冒険小説ばかり読んでいたとき、たまたまSF小説を一つ読んで、日記に記載する。そして、それがおもしろかったりすると、今度はSFというジャンルにコレクションが「開かれて」くるのです。