本日、通信教育の成績がネットで発表された。
西洋史のレポートで評価Cはいただけないが、これ以上ないくらい忙しい一年の中で、一応修了を迎えることができてホッとしている。
「創価大」カテゴリーアーカイブ
最終試験
本日、大学の最終試験を受験してきた。
埼玉でも受験できるのだが、最後の回ということで八王子にあるキャンパスで受験してきた。
八王子駅で降りたのは30年ぶりであろうか。
幸い、試験問題は予想の範囲内であったので、一応は解答用紙を埋めることができた。
一年間にわたる勉強であったが、まだまだ足りない。仕事との両立が上手く図れなかったのが心残りである。
あまり間を空けずに次のステップに進んでいきたい。
創価大学は、丘陵全体がキャンパスになっており、ちょうど数年前にオーストラリアで訪れた海外の大学のような雰囲気であった。
また、一昨年より新宿駅西口と大学正門前のシャトルバスが運行されており、八王子インターが近いので、高速を通って40分で新宿まで行くそうだ。これは便利である。
帰りに、キャンパスの正門前にある東京富士美術館へ出かけた。創価大学が運営しているのであろうか、学生証を見せたら無料で入ることができた。
北斎の「富嶽三十六景」全ての版画が展示されていた。デザイン以上に、版画とは思えないきれいな色使いに感心した。芸術鑑賞というよりは江戸時代のきめ細かい職人技術を観賞しているような感じだった。
レポート24本終了!
先程、コピー用紙が底をついたので、コンビニのコピー機で最後のレポートを印刷してきた。
やっと24本のレポートを仕上げることができた。最終試験に間に合うためのレポート提出の締め切りが12月2日だったので、ギリギリのタイミングであった。
まだこれから最終試験となるのだが、3月に作成した24本のレポートの山が片付いて、じわっとした安堵感に満たされている。
しかし、出来栄えについては決して納得の出来るものではなかった。10月下旬から11月末まで、これまでの人生で一番忙しいと思うほど仕事が立て込んで、参考文献を読むどころではなかった。最後の日本史・東洋史もほとんど参考文献を読まずに、電子辞書を頼りに辿々しい文章でマス目を埋めただけであった。
こうした経験を反省材料に、今度の試験では挽回を期したい。ちょうど東洋史は清代、日本史は近現代と時代が重なる。幕末から日清戦争、辛亥革命までの流れを丁寧に押さえながら、日中関係史をきちんと学び直したい。これからの1ヶ月半を充実したものにしたい。
日本史 第2課題
足利義満は史上最大の権力者といわれています。その理由について述べなさい。次に絶大な足利政権の権力が衰退していった理由はなにかについて述べなさい。
(1)史上最大権力者といわれる足利義満
義満が権力の座を維持できたのは,類稀な政治のバランス感覚と嗅覚にある。政敵に対し真っ向勝負を仕掛けることは少なく,常に相手の動向を探り,政変を招く急所を狙い,懐柔し絡め取る作戦に出ることが多かった。
14世紀後半の幕府の存在や将軍の地位は,対立する守護,特に斯波氏と細川氏の危うい力の均衡を前提に成り立っていた。義満はその均衡を積極的に利用し,父義詮の代から管領の立場にあった細川頼之を罷免し,斯波義将に乗り換えて,地位の安定を図っている。
また,20歳を過ぎた義満が考えた幕府の安泰策は,軍力に頼らず,威圧と懐柔で有力守護の力を削ぐことであった。土岐氏の乱においては,嫡家と庶家の対立を利用し内紛を生じさせている。また,明徳の乱では「六分一衆」と呼ばれた山名時義没後の一族内の対立に乗じて介入し,山名氏を3カ国の守護に落としている。さらに,応永の乱においては,口八丁で大内氏を巡る対立を煽った上で万全の戦いを展開している。
将軍の権威が確立した後は,守護統制により守護の在京を義務付け,有力守護を幕府の要職に任じ幕政を担当させることで,守護同士が結託することを未然に防いだ。
このような相手の出方を巧妙に伺う戦法は,後円融天皇と義満の間で行われた権力闘争でも発揮された。従来の武家は頼朝でも北条義時でも尊氏でも表向きは天皇・公家を立てていたが,義満は後円融天皇とは従兄弟関係にあるという出自から,武家は公家よりも上にあるべきという強烈な意識を抱いていた。
義満は,天皇制の持つ(空白であるが故に逆らえない)政治的意義を残しつつ,皇位そのものを簒奪するという作戦をとった。懐事情の苦しい貴族に対して守護使不入や段銭徴収免除,過所の特権付与を認めたり,義満自らの口添えで訴訟を有利に展開したり,所職,所領,役職を獲得し,官位を昇進させたりして,貴族を家礼として編成していった。義満は節会の内弁を頻繁に務め,朝儀や寺社造営を支えることで,公家として振舞い,政権統一に対する朝廷や公家側の抵抗を弱めていった。さらには三条厳子の刀傷事件や按察局密通に伴う上皇自殺未遂事件を通し,後円融天皇に対する誹謗中傷を展開した結果,14世紀末頃には貴族全体が義満を家督として認めるようになっていった。
1392年南北朝合一後,義満は将軍職を義持に譲り,太政大臣に任じられ,入道して道義と称した。しかし,義満は諸卿に対して上皇としての礼や対応を要求するようになり,実質的な権力は手中に残したままであった。後小松天皇の母親の逝去に伴う諒闇の儀に介入して,自らの妻である日野康子を准母とし,自らは法皇の格にまで昇りつめていく。さらに皇位継承を巡る対立に乗じ,次男の義嗣を公家のトップに据えようとした。
1374年,1380年と2回に渡り,義満は「征夷大将軍」名義の親書を持たせた使者を明に派遣している。しかし,冊封体制を取る明は,正式な国王ではないということで入貢を拒否している。そこで義満は叙任権や祭祀権の奪取の既成事実を積み上げ,1403年,有名な「日本国王臣源道義」名が入った明の返詔を得ている。朝貢形式をとったことは当時および後世の物議を醸したが,明から「国王」というお墨付きを得たことで,朝鮮とも外交ルートが成立し,莫大な貿易の利益と合わせて,当時の国際通貨である明銭の流通と共に義満の権威も国内津々浦々へと広がっていった。
(2)足利政権の権力が衰退していった理由
皇位権を利用することで国内のパワーバランスを図るという戦略は,義満個人の性格や資質に負う所が多いものであった。義満の急死により,その戦略は一気に瓦解していく。
義満の没後,斯波義将を中心とした有力守護の支持で義持が擁立されると,幕政は管領を中心に有力守護の合議により運営されるようになった。また,義持も亡父に疎外されてきたという経緯もあり,義満の絶対的専制君主志向を否定する政策をとる。有力守護や宿老たちも自らの世襲分国制を守るために,義持を巧みに利用して天皇の叙任権を復活させ,足利氏を抑えようとした。
義満の3男にあたる6代義教は父と同じく専制化を志向し,将軍の親政権を強化するとともに,守護大名の抑圧策を断行した。しかし,義満の手法であった懐柔と権威をもって臨むやり方と正反対の恐怖政治であり,嘉吉の乱に倒れることになった。義教が行った守護家家督への介入は守護家の内紛をあおり,かえって幕府の諸国支配を困難とし,守護勢力間の均衡関係を崩して応仁・文明の乱勃発の原因となった。
《参考文献》
安田次郎『走る悪党,蜂起する土民』小学館,2008
今谷明『室町の王権』中公新書,1990
『日本史広辞典』山川出版社,1997
日本史 第1課題
古代が終わり中世がいつから始まるのかについていろいろと学説があります。これを調べ、その是非を論じなさい。
(1)「12世紀」説
かつては,古代奴隷制社会に続き,近代資本主義社会に先行する社会で,封建制度中軸とする社会を中世と呼び習わした。一般的には鎌倉室町時代を前期封建社会,江戸時代を後期封建社会(近世)として区分している。
鎌倉室町時代は封建的身分も緩く,朝廷・公家の武力も残存していたため,封建勢力も分権的であり,後代に続く準備期として位置づけられた。江戸時代に入ると幕府による強大な中央集権体制が敷かれ,兵農は分離され,階級的主従関係が強固なものになり,幕藩体制が長期に渡って維持された。つまり,江戸時代を完成期とする封建体制の出発点を,武家社会が成立した鎌倉幕府成立時に求めたのである。古代と中世の境目は,政治的・制度的な区分に求められた。
(2)「10世紀」説
しかし,封建制の基盤である荘園制は鎌倉時代に突如として整備されたものではない。竹内理三の『寺領荘園の研究』(吉川弘文館復刊,1942)や,西岡虎之助の『荘園の研究』(岩波書店,1953)などにより,初期荘園は律令国家体制の土地機構である班田制の崩壊と併行して成立したとの考えが提出された。墾田永年私財法をきっかけとして,有力寺社や貴族,地方豪族が盛んに開墾を進め荘園制が展開していく8世紀後半から9世紀を封建制度の始まりとする見方である。
つまりは,古代律令国家の基盤が早期に破綻し,班田の否定という役割を担った荘園制を拡大していったという唯物論的歴史観である。西岡は班田制を崩壊させる主体として浮浪・逃亡に注目し,荘園は彼らが労働の主体を担ったとして高く評価している。また,武士においても,平将門の乱が武士発生の契機として,かつ源頼朝政権成立の前提として位置づけられ,平忠常の乱,前九年・後三年役を経過して徐々に貴族政権に取って代わっていくという革新的な役割が与えられた。
こうした歴史観が打ち出された背景には,近代天皇制国家を古代天皇制国家である律令体制に置き換え,近代天皇制国家の克服を律令国家の克服,すなわち中世国家や中世社会の成立のうちに見出そうとする戦時中の歴史家の思惑も多分に影響したものと考えられる。
そのため,中世武士階級の発生は古代貴族政権を打ち破る変革主体として英雄的な評価が与えられ,荘園制度が確立し,平将門以降を中世とみる歴史観が重んじられた。
(3)「11世紀後半」説
しかし,近年の歴史学は,国家体制の動向ではなく,民衆生活の変化を軸にした研究が中心となっている。最新の研究では,班田制の崩壊が一足飛びに荘園制に移行しないという結論を得ている。木村茂光の「中世社会の成立と荘園制」(『あたらしい歴史教育2』大月書店,1993)では,10世紀前半までの民衆と土地の関係が荘園制に該当しない理由を次のようにまとめている。
1.班田制崩壊後の10世紀以降においても,朝廷の公田・公領支配が継続されている。
2.鎌倉時代の一国規模の土地台帳である太田文などの分析によって,荘園制の確立は早くとも12世紀前半であること。
3.同じく太田文などの分析から,荘園制が確立しても1国の耕地のうち荘園は5〜6割を超えることがなく,後の4〜5割は公領として存在していたこと。
4.鎌倉時代の御家人役や一国平均役などの国家的な負担の賦課対象が太田文に記載された公田であったこと。
木村によると,9世紀後半の班田制の崩壊=律令国家の動揺を導き出した変革主体は富豪百姓の活動に求められ,彼らの活動に対応して成立したのが10世紀初頭の王朝国家であり,そこで採用されたのが公田制=負名制である。そして,その公田制が院政の拡充とともに荘園制へ展開していく時期を11世紀後半と設定している。その設定の上に,中世社会形成の原動力が富豪百姓=田堵らの農業経営と開発,さらにはそれらを契機とした村落の形成にあると評価している。そして,村落の進展にともなって公田制が再編されて公領=国衙領が形成され,その国衙領が基盤となって寄進地系荘園も成立すると説明している。
従来の歴史学では民衆生活という視点が抜け落ち,社会制度や経済制度から歴史を叙述していたために,鎌倉時代の武士は初めから館を構え村落を支配していたというイメージが定着してしまった。しかし,田堵らが農業経営や開発のために自主的に形成したのが中世村落であり,そうした中世村落の上に院政や武家政治が展開されたという事実に着目すれば,中世後期の一揆の時代に村落が闘争の基盤になるということも理解できるであろう。
《参考文献》
木村茂光「古代から中世へ」・鈴木哲夫「中世社会の成立」『前近代史の新しい学び方』青木書店,1996