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高齢化進む多摩ニュータウン

本日の東京新聞夕刊に、都議選特集記事として、少子高齢化が早いペースで進む多摩ニュータウンが取り上げられていた。
ニュータウンの中心地である諏訪・永山地区では1971年から入居が始まり、働き盛りが集まったが、その子どものたちの世代は転出が進み、場所によっては人口に占める65歳以上の割合が40%超と、昨年の都全体の割合(23%)を大きく上回る。小学校は統廃合の対象となり、駅近くの商店は、シャッターを下ろした店が目立つ。車の運転ができない高齢者が増えれば、「買い物難民」が続出してしまう。

都議選のテレビニュースを見ていると、築地移転のニュースや国政絡みのゴシップなど、都市の問題ばかりがクローズアップされているが、都下郊外の過疎化や高齢化の方が争点としては大きいのかもしれない。多摩市の阿部市長の「都はニュータウンの製造責任がある」との言葉の持つ意味は、今後重くなっていくであろう。

多摩ニュータウン
東京都南西部に広がる住宅地。多摩、稲城、八王子、町田の4市にまたがり、総面積約2800㌶。開発主体は都や都市再生機構など。現在は9万6500世帯、22万5000人が暮らす。1966年以降に造成工事が始まったが、入居開始が90年代以降の場所もあり、住民の年代は地区によって違う。

『十八史略おもしろ史話』

杉田幸三『十八史略おもしろ史話』(毎日新聞社 1991)の下巻を少しだけ読む。
授業の参考のために、「鴻門之会」に登場する張良、樊噲、范増の3人だけをチェックする。

『自転車で旅をしよう』

自転車生活ブックス編集部『自転車で旅をしよう:初めてでも楽しめる週末ツーリングのすべて』(ロコモーションパブリッシング 2005)を読む。
10年以上前の本であるが、1泊2日程度の「大人」の週末ツーリングのための計画や装備、乗り方に始まり、先輩ライダーのツーリングスタイルなど、写真やイラスト入りで大変分かりやすくまとめられている。

テント利用のキャンプや寝袋だけの野宿は、本書においてはおすすめしない。元気な少年や若者ならともかく大人の週末の旅行としてはあまりにもリスクが大きいからだ。多少の金銭的負担は自分への投資と割り切って、きちんとした宿泊施設を利用するにようにしたい。お風呂に入り、真っ当な寝具で眠る。これが翌日に疲れを残さない重要なポイントなのだ。

『史記の風景』

宮城谷昌光『史記の風景』(新潮文庫 1997)をパラパラと読む。
ちょうど「鴻門の会」を扱っているので、教材研究として手に取ってみた。
明日の授業の中で触れられそうなところだけ

各王朝の盛衰が書かれている「本紀」と、天下に名をあらわした個人の伝記である「列伝」が組み合わさった歴史書の構成を「紀伝体」と言い、むろん司馬遷の発明であり、のちの歴史家はそのスタイルを踏襲することになった。

清少納言も『枕草子』の中で、「書は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申し文。」と書いている。

李陵は司馬遷の僚友といってよい。漢の武帝が李陵に八百の騎馬を与えたところ、李陵は敵地である匈奴の血を二千余里も侵入して帰ってきた。その勇気をめでて、武帝は五千の歩兵を李陵に与えたのである。李陵はその兵をきたえて強兵にしたあと、武帝に出撃のゆるしを請い、匈奴征伐を行なった。ところが匈奴はその五千の兵を八万の兵で包囲したのである。さすがの李陵も力つきて、匈奴に降伏した。その行為を武帝への裏切りではないと信じた司馬遷は、李陵を弁護したのである。が、やがて李陵が匈奴の将となったことがわかり、激怒した武帝によって、李陵の母や妻子は処刑され、司馬遷も宮刑に処せられた。

亜は「つぐ」と訓む。亜父は父のつぎに尊い人ということになろうか。范増は南方の居巣の出身で、70歳になるまでだれにも仕えずに、家でひっそりと暮らしていた。ところが秦の始皇帝が死んだあと、天地がひっくりかえるほどの大乱がおき、つぎの時代を指導して行くのが、どうやら項梁という男だとみきわめると、家をでて、北にむかい、薛というところで諸将をうごかしている項梁に会いにいった。そのときの献策が項梁に容れられて、楚軍に属すことになる。だが項梁はすぐに戦死し、楚軍を率いることになったのが、項梁の甥である若い項羽であった。范増は項羽に仕え、奇計をもってかれの覇業をたすけた。亜父、の語があらわれるのは、鴻門の会、を描写するところである。
−−亜父は南に嚮って座す。
とあるから、范増がもっとも尊い席についていたことになる。南に向かってすわるのが天子であれば、北に向かってすわるのが臣下である。日本にあった「北面の武士」の北面は、そこからきている。
さて、范増は項羽のために尽力したが、項羽の最大の敵となった劉邦は、謀臣の陳平の計を用い、項羽に范増を疑わせた。そのため怒った范増は項羽と袂をわかち、帰国する途中で悪性のはれ物が背中にできて死んだ。項羽は范増をしりぞけたことで、十中八九手中のおさめた天下を失った。

Wikipediaより
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

西面武士(さいめんのぶし)は、鎌倉時代、上皇に仕え、身辺の警衛、奉仕などにあたった武家集団のこと。1200年ごろ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされる。

元荒川サイクリング

 

 

本日は一日中雨の予報であったが、朝方少し降っただけで、どんよりとした曇天の一日となった。
しかし、新書も久しぶりに2冊読めたし、午前中は自転車の整備、午後は古利根川や元荒川沿いのサイクリングロードを走ることができた。野田線の踏切を越えて、慈恩寺親水公園を回って帰路についた。
特に越谷や岩槻区内の元荒川周辺だが、埼玉に越してきてから20年近く、車で何度も何度も通っているにも関わらず、自転車から見える新鮮な風景に驚きを感じた。一本道を外れるだけで出会える景色をこれからも大切にしたい。

P.S.
午前中に結束バンドでサイクルメーターをマウンテンバイクに付け直した。恥ずかしい話、結束バンドというと手首足首を固定するなどの犯罪に用いられるといった程度の認識しかなかった。しかし、大変安価ながらもコード類をまとめるだけでなく、物を吊りさげたり、固定したり、複数組み合わせたりできるなど、意外に応用範囲が広いことを知った。ちょっとはまってみたいアイテムになりそうだ。