宮城谷昌光『史記の風景』(新潮文庫 1997)をパラパラと読む。
ちょうど「鴻門の会」を扱っているので、教材研究として手に取ってみた。
明日の授業の中で触れられそうなところだけ
各王朝の盛衰が書かれている「本紀」と、天下に名をあらわした個人の伝記である「列伝」が組み合わさった歴史書の構成を「紀伝体」と言い、むろん司馬遷の発明であり、のちの歴史家はそのスタイルを踏襲することになった。
清少納言も『枕草子』の中で、「書は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申し文。」と書いている。
李陵は司馬遷の僚友といってよい。漢の武帝が李陵に八百の騎馬を与えたところ、李陵は敵地である匈奴の血を二千余里も侵入して帰ってきた。その勇気をめでて、武帝は五千の歩兵を李陵に与えたのである。李陵はその兵をきたえて強兵にしたあと、武帝に出撃のゆるしを請い、匈奴征伐を行なった。ところが匈奴はその五千の兵を八万の兵で包囲したのである。さすがの李陵も力つきて、匈奴に降伏した。その行為を武帝への裏切りではないと信じた司馬遷は、李陵を弁護したのである。が、やがて李陵が匈奴の将となったことがわかり、激怒した武帝によって、李陵の母や妻子は処刑され、司馬遷も宮刑に処せられた。
亜は「つぐ」と訓む。亜父は父のつぎに尊い人ということになろうか。范増は南方の居巣の出身で、70歳になるまでだれにも仕えずに、家でひっそりと暮らしていた。ところが秦の始皇帝が死んだあと、天地がひっくりかえるほどの大乱がおき、つぎの時代を指導して行くのが、どうやら項梁という男だとみきわめると、家をでて、北にむかい、薛というところで諸将をうごかしている項梁に会いにいった。そのときの献策が項梁に容れられて、楚軍に属すことになる。だが項梁はすぐに戦死し、楚軍を率いることになったのが、項梁の甥である若い項羽であった。范増は項羽に仕え、奇計をもってかれの覇業をたすけた。亜父、の語があらわれるのは、鴻門の会、を描写するところである。
−−亜父は南に嚮って座す。
とあるから、范増がもっとも尊い席についていたことになる。南に向かってすわるのが天子であれば、北に向かってすわるのが臣下である。日本にあった「北面の武士」の北面は、そこからきている。
さて、范増は項羽のために尽力したが、項羽の最大の敵となった劉邦は、謀臣の陳平の計を用い、項羽に范増を疑わせた。そのため怒った范増は項羽と袂をわかち、帰国する途中で悪性のはれ物が背中にできて死んだ。項羽は范増をしりぞけたことで、十中八九手中のおさめた天下を失った。
Wikipediaより
北面武士(ほくめんのぶし)とは、院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。
西面武士(さいめんのぶし)は、鎌倉時代、上皇に仕え、身辺の警衛、奉仕などにあたった武家集団のこと。1200年ごろ、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したとされる。