ビギナーズ・クラシックス『徒然草』(角川文庫 2002)を読む。
鎌倉初期の鴨長明の著した『方丈記』は、人間の悲喜交々生きざまを大局的に見る「無常観」の大テーマに沿って最後まで一貫して論が展開される。そのため、真面目すぎて「あそび」が無いように感じる作品となっている。一方、『徒然草』の方は、サラリーマン向けの教養書といった趣で、今で言う「日刊ゲンダイ」のように、中年男性が直面するようなマナーや女性問題、仕事上の心構えなどが説かれる。
『徒然草』など学生時代に読んだときは、うんともすんとも面白いと思わなかったが、40近くなってきて読むと、心に響くような警句が多かった。
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『中国詩人伝』
陳舜臣『中国詩人伝』(講談社文庫 1995)を読む。
授業で唐詩を扱うので、手に取ってみた。紀元前4世紀の屈原から20世紀の魯迅まで、2000年以上に亘る20数名の詩人とその代表作が紹介されている。白居易や王維は言うまでもなく、「七歩詩」で知られる曹植や、「春宵一刻値千金」で知られる蘇軾などの来歴について知ることができた。また、日本では意図的に、詩と政治の関わりが避けられてきたが、中国では王安石の新法施行以前まで科挙に詩作が課せられていたこともあり、政府や政治への皮肉が込められた詩も数多く生み出されている。魯迅も50ほどの旧体詩を作っており、上海事変を嘆く詩なども作っている。
また、陳舜臣氏ならではの視点も紹介されている。有名な項羽の抜山蓋世の歌であるが、陳舜臣氏は、その歌に、自らが招いた敗戦の責任を時勢のせいにしたり、自らが酷使してきた名馬の騅が歩みを止めたのを騅のせいにする項羽という人物の性格が表れていると指摘する。一方で、劉邦の「大風起こりて雲飛揚す 威は海内に加わりて、故郷に帰る 安くにか猛士を得て四方を守らん」という歌を引いて、そこに、優れた兵士を集め、この国を守らせたいという劉邦の部下に対する信頼感があると述べる。確かにこの2つの詩を並べてみると、なるほどなと思う。授業の雑談として活用してみたい。
『解剖学個人授業』
養老孟司/南伸坊『解剖学個人授業』(新潮社 1998)を読む。
雑誌『SINRA』に連載された文章で、予め養老教授から解剖学についての個人授業を受けた南伸坊氏が、素人的な視点から授業のまとめノートレポートを提出し、養老教授が講評を付すという形をとっている。南伸坊氏の素人はだしな文章に驚いてしまうのだが、誌上外で行われたらしい個人授業の様子が伝わってこないので、「上巻」を飛ばして「下巻」だけ読んでいるような気持ちになってしまい、半分ほどで本を閉じてしまった。
『ことばへの旅:第3集』
森本哲郎『ことばへの旅:第3集』(ダイヤモンド社 1975)を読む。
ここしばらく公私共々バタバタしており、日常生活の中で、本を手に取る余裕すらない。あと半月ほどしたらちょっと余裕が出てくるので、読書の時間をきっちりと確保していきたい。
前作の第2集は美意識や精神論が多かったが、今作の第3集には忙しい生活や、それ故の理想に向けた営みなど現代をモチーフとした言葉が数多く収められている。前作よりも面白かった。
その中で、夏目漱石の『草枕』の中の一節である「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地と通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」を取り上げ、日本社会の世間の中で生きていく難しさを指摘している。学生時代にも目にした言葉であるが、然して気にも留めなかった。しかし、現在、職場や家庭などで、この言葉の意味がすごく実感できる場面がたくさんある。そうしたことを感じるほど私が老けたのか、いわゆる「大人」になってしまったのか。。。
また、フランツ・カフカの『審判』という小説の一節へのコメントが印象に残ったので、引用してみたい。
私は、カフカのあのことば、「要するに、おまえは逮捕された、それだけの話なのだ」というあの不気味なことばの意味を、こう解読します。
——要するに、私たちは生まれると同時に、運命に逮捕されたのだ。それだけの話なのだ。しかし、逮捕されたからといって、身柄を拘束されるわけではない。だから、知らん顔していようと思えばできないわけではない。が、その逮捕の理由を問うことが、じつは人生の意味なのだ。逮捕ということばを、尋問とおきかえてもよい。私たちは生まれると同時に、運命に尋問されているのだ。尋問に対して黙秘することは自由である。だが、全力をつくして答弁しつづけること、それが人間の生きる目的であり、内的な拠り所なのだ、と。
人生とは、〈答え続けること〉なのだ、と私は思うのです。