昨日の東京新聞夕刊に、自衛隊イラク派遣反対のビラを配るために、東京都立川市の防衛庁舎に無断で立ち入ったとして住居侵入罪に問われた市民団体のメンバーが東京高裁にて逆転有罪判決を受けたとの記事が載っていた。防衛庁職員の身体やプライバシーに何らの危害を加えることなく、単に自衛隊派遣反対の意思を表明しただけで罰せられるという恐ろしい事件である。被告らは最高裁へ上告したそうだが、住居侵入罪という微罪ではなく、後々の民主主義を守るために、表現の自由という観点から、論議が展開されるべきである。
詳細は立川反戦ビラ弾圧事件のホームページへ。
静岡大学助教授の笹沼弘志氏は、今日の東京新聞朝刊で、「判決では『他人(自衛官)の権利侵害』の中身を『イラクへの派遣命令の拒否を促す』ビラの内容としている。肝心なことは侵害の中身が自衛官のプライバシーなどではなく、ビラで揺れる自衛官の士気という国家機能という点だ。結局、政治的言論だから機制すべきだという判断だ」と述べ、そして、「ビラは言論の基本だ。それを配る自由抜きに民主主義は成り立たない」と、一昔前ならばタカ派の政治家にとっても当たり前の条理を述べている。
さらに、評論家平岡正明氏は、本日の東京新聞夕刊で、自身が青春時代を過ごした1960年代と現在を比較して次のように述べている。
いつからこんな窮屈な時代になったんだろう。いかがわしく猥雑なものがはらむ思想の可能性、正しいかどうかより面白いかどうかの方法を僕らは追い続けてきた。でも、現代はそれが通じません。民主主義のルールで言論統制こそしませんが、犯罪や暴動の意味とはなどと言うと、必ずその後で口ごもらざるをえなくさせる気分のファシズムが社会を覆っている。いかがわしさの封じ込めが正常化と思われているわけですが、実はそれは社会の弾力が弱まり、個性や想像力が単純になっていることでしょう。禍々しさや異論の余地のない、誰でも肯定するようなお手軽な考えを、僕は思想とは思わない。
戦争は遠い海外からやってくるのではなく、私たちの日常生活の足下から生まれてくるのである。そのことを忘れてはならないだろう。