渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書,2013)を読む。
著者の渡辺京二さんであるが、私はあまり知らない研究者であった。Wikipediaによると、「旧制熊本中学校に通い、1948年(昭和23年)に日本共産党に入党する。同年第五高等学校に入学するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、国立結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する」とある。なかなか激しい経歴の持ち主である。
本書は、2010年前後、熊本大学等で講演された内容がまとめられている。近世までは自分の国が戦争をしていようと「オラ知らねえ」といった態度であったが、近代に入ると、有無を言わさず国民国家に組み込まれていく。そうした近代の声性質について、著者は次のように語る。
私たちの一生のうちに遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではありません。そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質です。また私たちはまったくの個人として生きるのではなく、他者たちとともに生きるのですから、その他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがらです。そして、そういう関係は本来、自分が仲間たちとともに作り出してゆくはずのものです。
近代というのは、そういう人間の能力を徐々に襲わせてゆく時代だったのではないでしょうか。すべての生活の局面が国家の管理とケアのもとに置かれ、国家に対して部分利益を主張するプレッシャー・グループとして行動するか、正義やヒューマニズムの名のもとに異議申し立てをするかの違いはあっても、いずれも国家に要求するという行動様式に型をはめられてしまう。要求すればするほど国家にからめとられてゆく。そして、実質的な人生のよろこびから遠去かってゆく。
また、著者はそうした近代が生み出した市民社会については次のように論じている。
今日の市民はいろんな情報を与えられています。デトロイトの労働者は自分の会社の景気が悪く、自分たちが失業しかねないのは、トヨタやホンダのせいだと情報を与えられておりました。世界経済がグローバル化するにつれて、自分が属する国民国家の地位が自分の生活に直結する例は増加するのですから、グローバリズムは国民国家を逆に強化することになります。われわれはますます国民国家の枠組にとらわれ、国益以外の視点は閉されてしまうのです。
一方、社会の福祉化、人権化・衛生化が進むにつれ、個人はますます国家あるいは社会の管理を受けいれざるをえなくなります。人権化というのは変な言葉ですが、いわゆるポリティカル・コレクトネスを含めて、差別の徹底的排除の方向のことです。衛生化というのは、禁煙を含め社会環境を徹底的に殺菌・無害化しようとする方向のことです。いずれも膨大な官僚・テクノクラート、専門技術者を必要とします。国家の管理機能は増大するばかりです。いわゆる民営化は見かけは国家の機能を縮小させたとしても、管理機能を民間組織に譲渡しただけで、テクノクラート・専門技術者の数が減ったわけではありません。このような個人が国家(社会と言い換えてもよろしい)の管理に従属してゆく様相は、今後強まるばかりでしょう。それはみな、民衆世界の自立性を近代が撃滅した結果なのです。