小林多喜二『蟹工船・党生活者』(新潮文庫 1954)を読む。
先日の立川反戦ビラ弾圧事件が、ちょうど戦前の反戦運動の状況に似ていることを懸念し、10数年ぶりに読み返してみた。著者の代表作である『蟹工船』では、帝国主義を邁進する1920年代の日本における、産軍複合の苛烈な資本主義に抑圧される労働者の団結が鮮やかに描かれる。職階を越えた労働者の統一戦線結成という大団円に向けて、まるでオペラの台本を読んでいるように、話が展開していく。
解説の中で蔵原惟人氏が「全体としての集団の力はかなりダイナミックに示されているが、個々の労働者の独自な階層的・個人的容貌がはっきりと印象づけられない結果をともなった」と指摘するように、残念なことに運動に参加する個々の労働者の主体性は捨象されてしまっている。登場する人物全てが「こんなことして会社をクビになったらどうしよう…」とか「俺は身分の低い彼らとは違う…」といった不安や邪念に駆られず、粛々と行動を始めている。その行動原理はあたかも「マルクス神」や「レーニン神」といった神にすがるような信仰心に近いものである。大乗仏教や一向宗に替わる新たな信仰の対象として外来の社会主義革命が幸福をもたらすものだと礼賛の対象としている。「キョーサントー」と何遍も唱えていればいつかは平穏無事に共産主義革命が実現するかのように、この世(資本家優位の社会)とあの世(労働者優位の社会)の仲介人として共産党が登場する。
著者の最期の作品となった『党生活者』でも、労働者大衆は共産党細胞の指示の下に、紆余曲折を経ながらも都合よく組織化が図られていく。そこには中野重治が挫折しながらも、敵を見据えていく粘りのようなものは感じられない。中野は『文学者に就いて』(1935)の中で次のように述べる。
弱気を出したが最後僕らは、死に別れた小林(多喜二)のいきかえつてくることを恐れはじめねばならなくなり、そのことで彼を殺したものを作家として支えねばならなくなるのである。僕らは、そのときも過去は過去としてあるのであるが、その消えぬ痣を頬に浮かべたまま人間および作家として第一義の道を進めるのである。
中野は、小林多喜二を殺した者は国家や警察といった権力だけでなく、