月別アーカイブ: 2025年9月

『自然再生』

鷲谷いづみ『自然再生:持続可能な生態系のために』(中公新書,2004)をちょこっとだけ読む。
「SDGs(持続可能な開発目標)」という言葉が登場する10年以上前の本だが、気候変動や生物多様性、森林破壊、人類との共存、健全な農業・食卓、里山の可能性、英国での田園風景再生の取り組みなど、目新しい話題を平易な文章で説明されている。

さらに、人間によって意識的・無意識的に持ちこまれる外来種は、在来魚を脅かすオオクチバス、アマミノクロウサギやヤンバルクイナなどの絶滅の危険を高めているマングースなどの例からもわかるように、最近では非常に大きな脅威となって、在来の生物が絶滅の危機にさらされる主要な原因のひとつとなっている。人為的な環境改変を受けた土地は外来種が生活するのに適しており、外来種は世界的にも猛威を振るう傾向を強めている。日本では北アメリカからもたらされたオオブタクサやセイタカアワダチソウなどが在来の植物に大きな影響を与えているが、日本の植物も、たとえばクズは北アメリカで、イタドリは英国で厄介な害草となっている。日本のワカメはオーストラリアの海域に広がり、もっとも厄介な外来種のひとつとして認識されている。

『秋田をこう変えよう!』

21委員会編『秋田をこう変えよう!:21委員会からの提言』(秋田文化出版,1993)をちょこっとだけ読む。
教材研究の一環として手に取ってみた。今から30年以上前、団塊ジュニア世代が成人になった頃で、まだまだ少子化や景気悪化などは感じにくい頃である。しかし、その頃から秋田では農業への不安が語られていた。

その中で、魁新報社の元社員の石川嘉明さんのコメントが印象に残った。

この間上小阿仁に行って驚いたわけ。北林孝市村長に「何人生まれましたか」と聞いたら、「二十人だ」と言うんですよ。「何人お亡くなりになりましたか」と言ったら「五十四人だ」と言うんですよ。つまりね、生まれる人の倍以上死んでいるわけだ。まあそれはおいといて、二十人のうち女性は十二人、つまり半分ですよ。そこでちょっと計算してびっくりしたわけですが、昨年生まれた十二人が全部村に残って、健康で結婚して子供を産んだ場合、何人産むだろうか。特殊合計出生率を一・五三人としますと、だいたい十八人産むんですよ。そのうち女性が半分ということになりますから、九人なんですね。この九人の女性が何人子供を産むかというと十三人、十三人のうち六人が女性、こうして行きますと、大変乱暴な計算ですが、上小阿仁の場合六世代で生まれる子供はゼロになってしまうんですよ。これは極端な例ですよ。だから秋田の場合も三十五年後、七十九万人になっていくわけでしょ。日本の場合も百年後で現在の半分、二百年後にまたその半分、三百年後にはゼロになるという計算もある。百年後のことは我々の世代の問題ではないが、確実に滅びの道”を歩いていると見ているわけ。

数年前、南外村に行ったときに、南外の農協の職員を一人養うのに十数人で養っていると言うんですよ。やがて四人で一人養わなければならないと、真剣に話し合っているんですよ。農協の職員を養うために農民が働くという重大な結果を招くことになる。だいたい組合員が五百人とかさ、そのくらいで農協がやって行けるわけがないですよ。だからいずれ県南、県北、中央に一つ、やがては一県一農協時代がやって来るかも知れない。この間大曲農業高校の草薙稲太郎校長と話し合ったんです。県内には農業高校が六校あって毎年三千人の卒業生を出している。今年の就農者はたった四人だと言うんですよ。農協初め農民達の間に本物の意識革命が起こりませんと、未来は開けてこないと思うんです。

「教育『改革』批判リストラされる知」

「教育『改革』批判リストラされる知」『情況』(情況出版,1997.11)をパラパラと読み返す。
当時、この雑誌を読んで、当時立正大学教授の清水多吉先生の講演会を計画したのか、実施後に手に取ったのか記憶が定かではないが、大学教育に対するゴリっとした批判論集となっている。

柄谷行人+絓秀美+水島武(駒場寮生)の3者での「東大は滅びよ」と題した座談会で、柄谷氏は次のように述べる。

(東京大学教養学部の小林康夫氏や船曳建夫氏をあげて)彼らのやっていることは、日本の中の表象づくりでしょう。『知の技法』なんて予備校の参考書だけど、予備校の教師もバカにしている。ゴミみたいなもんだからさ。本当に東大の表象だよ。あんなものを書いて外国で通用する奴なんか一人もいない。はっきりそう言える。だから、連中が何をしようが、もう死んでるだからさ、改革なんてしようがない。死んでることを認めればいいんですよ。日本資本主義としても認めないよ。ああいうのは(笑)

気持ちの良いほどの切れ味のある批判である。ここから「知の解体」という講演会が生まれたんだっけ。

また、「『知の抹殺』への警鐘」と題した立正大学教授清水多吉+明治大学教授後藤総一郎+大東文化大学教員吉田憲夫の3者の座談会の中で、清水多吉氏は次のように述べる。

現代は社会・文化のいずれの局面をみても、一見、弛緩現象が目立っているように見えますね。しかし、現実には様々な社会のシステムが張りめぐらされて、われわれを縛りつけていますよね。社会システム論者のルーマンの科白で言うなら、われわれの身のまわりの様々なシステムは、極めて閉鎖的であり、その上でシステム自体が自己増殖性をもっている。経済のシステム、法のシステム、教育のシステム、消費生活のシステム•••・果てはライフ・サイクルのシステムまで。大学教育だって例外ではない。この社会のシステムにチエックと反省を迫るのは、今のところどこにもない。それは「生活世界」だという意見もあるが、大学には「生活世界」はない。ただし、「生活世界」の原理であるシンボルに媒介された相互行為は原則的に残されているはずです。平たく言えば、たとえどんな小さな可能性であっても、閉鎖的システムに対する反省を迫る「討論の場」であるべきだというのが私の思いです。だけど、現状は「何をとぼけたことを言っているんだ」という雰囲気になっており、現状システムを作動させるスキル(技術)を学ぶことで手いっぱいというところです。

大学について「閉鎖的システムに対する反省を迫る討論の場」という言葉が印象に残った。

『ことばの力』

川崎洋『ことばの力:しゃべる・聞く・伝える』(岩波ジュニア新書,1981)をパラパラと読む。
著者自身が「わたしにとっては、いちばんむずかしい項目について述べなければならなくなりました。というのは、私自身ずーっと、自分の感じたことを、散文ではなく詩で表現してきましたから、「自分の考えを伝える」ということは、得意ではないと思っているからです」と本音をもらしているように、川崎氏は韻文専門の人と思い込んでいた。

しかし、新書丸ごと、言葉や用例、詩を参考にしながら、あいさつの言葉や驚きの言葉、悪口、ユーモア、悲喜、恋愛、電話の語り口、方言など、言葉にまつわる説明が分かりやすく書かれている。読みやすく味わい深い評論で、かつ、ところどころに著者自身の体験や感情も挿入されており、一流の評論文となっている。

『国宝』

イオンシネマ春日部で、李相日監督、吉沢亮・横浜流星主演『国宝』(2025,東宝)を観た。
3時間近い上映時間であったが、本来なら8時間分くらいのドラマを3時間に凝縮したような展開となっており飽きることが全くなかった。話の文脈や時間の流れの省略も多いので、文学作品を味わう大人の映画となっている。

この一見地味な映画が150億円近い興収を叩き出しているのは、中高年層が映画館で鑑賞しているからだ。映画が終わった後、改めて観客の方々の年齢層の高さに驚いた。若者がスマホの動画で済まそうという傾向が強い中で、中高年層は一時期のような熱の入ったテレビドラマが少なくなってきたので、映画館に回帰しているのであろうか。昨年の『侍タイ』も同じベクトルにある。