月別アーカイブ: 2017年8月

『涼しい脳味噌』

養老孟司『涼しい脳味噌』(文春文庫 1995)をパラパラと読む。
東京大学医学部で解剖学の教授を務めていた頃に、あちこちの雑誌に寄せたエッセイをまとめたものである。小難しい医療や社会に関する問題を分かりやすい文体で、著者の頭の良さをひしひしと感じる。

東京芸大大学院で美術解剖学を研究し、執筆当時に著者のもとで助手を務めていた布施英利の著者批評が面白かった。養老氏が研究室のパソコンの前に座っているときは、たいていテレビゲームをしていたそうだ。しかもその根気が並大抵でなく、圧倒的な集中力と持続力でゲームに向かっていたとのこと。また、息子さんのスーパーマリオを連続18時間もやりこみ、親指の皮を剝いたというエピソードも紹介されている。

きっちりと読んだわけではないのだが、時折ハッとするような内容に目を奪われる。文章を真似するつもりで少々引用してみたい。

 クジラはほとんど聴覚しか使わない。この巨大な動物にとって、生きるためにはそれで十分だった。その脳はきわめて発達するものの、聴覚的な論理的思考しか受けつけない。だから、クジラは、論理的かつ倫理的に砂浜に乗り上げる。聴覚的に存在しないものは、クジラの世界には、あってはならないものだからである。クジラは長年、なにを恐れることもなく、そうして大海原を自由に泳ぎ廻ってきた。それはクジラの正義といってよいであろう。

あってはならないといわれるものは、この世にたくさんある。だが私は、それをいわれるたびに、クジラの自殺を思い出す。この世にあるものは、あるものである。あってはならないから撲滅するというのは、きわめて論理的だが、それは、時によってはクジラの自殺ではないのか。

私はユダヤ人を撲滅しようとしたヒットラーに、与するものではない。しかし、それをあまり悪党にされると一言いいたくなる。クジラがわれわれと同じ哺乳類であるように、ヒットラーもまた人間だった。われわれもまた、人間である。ともに人間である以上、ああいう人が、時と場合によって、また出てこないと、だれがいえるのか。クジラが集団自殺するように、かれに追従した人間は、大勢いる。次の機会にもまた、おそらく大勢いるであろう。それがヒトというものではないか。なぜなら、そのことは、すくなくとも一度、実際に証明されているからである。

だから私は、自分の中にも、いくばくかのクジラと、いくばくかのナチズムがありうるかと思っている。(1989年1月)

 

 ゴキブリが好かれないのは、だれのせいか。むろん、われわれのせいである。チンバンジーもゴキブリを嫌う。嫌い方を見ていると、人間そっくりである。ゴキブリが背中についているのではないか。そんな感じがしようものなら、大慌てで手で払おうとする。その仕草は、人間がやるのと、ほとんどまったく変わらない。こういう仕草を見ていると、人間のゴキブリ嫌いは先天的だという気がする。しかし、ゴキブリが嫌味なのは、ゴキブリのせいではない。それをゴキブリのせいにするところから、「差別」が生じる。ゴキブリがゴキブリであることが許せない。しかし、ゴキブリはゴキブリであるしかないではないか。

無茶を言うなと言われそうだが、差別とは、元来そういうものである。相手方にない性質を相手方のもともとの性質として「仮託する」。すべての差別は、そういうものであろう。嫌悪感だと、それがよくわかる。しかし、好意だって、論理的にはまったく同じである。それを贔屓という。その意味では、すべての贔屓は依怙贔屓である。恋愛をみても、それがよくわかる。

相手がゴキブリなりクワガタなら、社会問題は生じない。人間となると、大問題を生じる。この国の人は、倫理のかわりに「美的感覚」を導入するから、わりあい差別感を表明しがちである。自分ではそれに気がつかない。

「倫理」は行動の原則である。政治家の発言は、その影響から考えるなら、行動して捉えらえる。それなのに「感覚」のレベルから発言するので、政治家の差別発言が止まらないのであろう。

ゴキブリが嫌だからと言って、かならず殺していいというものでもない。「嫌」は感覚だが、「殺す」のは行動である。感覚が行動に直結するのは、進化的にもっとも下等な神経系である。

ゴキブリ殺しを平気で許容する社会には、それなりの問題が自然に発生するはずである。ゴキブリを殺すための道具が、大都会に一般に広がるのは、なぜだろうか。いまでは、ハエ取りリボンやハエ取り用の長い管は、まったく見かけなくなった。これはもちろんトイレが水洗になり、人糞肥料が使われなくなったからであろう。そうしたら、次はゴキブリ。まだゴキブリがいるだけよろしい。これがいなくなったら、その次はなにか。どうもその次あたりから、対象が人間になりそうな気がするのである。子供たちのイジメの話などを聞いていると、そこが不気味である。「虫ずが走る」生き物というものが、人間の感性にとって、どうしても存在せざるを得ないものであるなら、ゴキブリやクモやフナムシを、その対象として保存しておくべきであろう。その先まで、あまり進行させない方がよいように思う。これは理屈ではなく、感性の問題なのである。(1991年3月)

 

 

「エストニアが仮想通貨検討」

本日の東京新聞朝刊に、北欧バルト三国のエストニア(首都Tallinn)が独自の仮想通貨の発行を検討しているとの記事が掲載されていた。電子政府の推進に積極的に取り組んでいるエストニア政府は、非居住者にもインターネット上で居住者と同等の権利を提供する「電子居住権」を2014年2月に世界で初めて導入し、海外からも銀行口座開設や会社設立などが容易にできるようにしている。独自の仮想通貨発行は、電子居住権システムを運用管理する政府の担当者がブログで明らかにした。

エストニアは人口131万人と小さい国ながら、ユーロ加盟後にIT立国化を推進し、スカイプが誕生した国としても知られる。電子政府、電子IDカード、ネット・バンキング等の普及が顕著であり、世界で唯一、国政選挙までネット上で行えるようになっている。

埼玉県さいたま市の人口は128万人で、ちょうどエストニアと同じくらいである。さいたま市程度の規模であれば、独自通貨も現実味を帯びる話である。日本でも参考になるであろう。

「オランウータン12年間で激減」

 

本日の東京新聞夕刊に、インドネシア・カリマンタン島(ボルネオ島)のオランウータンの生息数が約12年間で激減しているとの記事が載っていた。昨年の100平方キロ当たりの推定生息数は13〜47頭で、12年前から大幅に減っている。生息地の減少や違法な狩猟、森林火災などが原因という。オランウータンは絶滅が危ぶまれており、環境団体などが保護を呼びかけている。

マレー語で「森(hutan)の住人(orang)」を意味するオランウータンは、アフリカに生息するという漠然としたイメージがあった。インドネシア(首都:ジャカルタ)とマレーシア(首都:)、ブルネイの3カ国があるボルネオ島とスマトラ島にしか生息していない最も人間に近い霊長類のひとつである。

赤道上に位置するボルネオ島であるが、wikipediaによると、英語ではボルネオ(Borneo)、インドネシア語ではカリマンタン(Kalimantan)の呼称を使うのが一般的。また、「ボルネオ」の語源は、かつて島の北半分を占めていた「ブルネイ」が訛ったものといわれている。面積は725,500km2で日本の国土の約1.9倍の大きさである。世界の島の中では、グリーンランド島、ニューギニア島に次ぐ、面積第3位の島である。

オランウータンは一生を木の上で過ごすため、熱帯雨林の伐採が直に彼らの生活空間を脅かすことになる。日本は国土3分の2が森林で覆われており、木材資源が豊富な世界有数の森林大国であるが、木材自給率は30.8%(2015年)である。残りは世界中から輸入しており、米国、カナダ、オーストラリア、マレーシア、インドネシア、ロシアが大半を占める。日本の責任も明記しておきたい。

「二輪ASEANで好調」

本日の東京新聞朝刊に、ヤマハ発動機の柳社長の「ASEANは基盤ができてきた」とのコメントが掲載されていた。ベトナムやタイの販売が好調で、2017年6月中間連結決算は増収増益で純利益は過去最高を記録している。

産経ビズの情報によると、中国の二輪販売は数年前の2500万台をピークに減少に転じており、インドが生産・販売で世界第1位となっている。その背景には農村部の所得上昇や道路などのインフラが整備される一方で、都市部で交通渋滞が悪化し、取り回しの良いスクーターに人気が集まっているという。

ベトナムも電車がなく、バスも時間通りに運行されていない。また、自家用車は渋滞悪化を懸念した政府が関税や莫大な手数料をかけており、日本で買えば新車でも150万円程度のカローラが、ベトナムでは400万円以上もするという背景がある。

また、タイの二輪市場であるが、これは学生時代にバンコクを訪れ、実感しているところでもある。150ccくらいのバイクの後ろに乗って、どこかにぶつかって足が吹っ飛ぶんじゃないかと思いながら、運転手にしがみついていた記憶がある。

「ベネズエラ混迷」

本日の東京新聞朝刊の社説に、国家破綻が危惧される南米ベネズエラのマドゥロ大統領の責任を問う内容が掲載されていた。

日本の約2.4倍の国土に約3000万人の国民が暮らすベネズエラ(首都カラカス)であるが、世界屈指の石油資源に恵まれ、1950年代には南米有数の富裕国となった。それが今では主食のとうもろこし粉や食用油などの食料品、洗剤、トイレットペーパーなどの日用品が店頭から消え、年間3桁の猛烈なインフレが国民生活を直撃している。

1999年に就任したチャベス前大統領は反米左派を掲げて社会主義化を進めた。企業を国有化し、食料品などの基礎生活財の価格を低く抑える統制に踏み切った。支持基盤の貧困層にはバラマキ政策を展開した。しかし、価格統制と国有化は生産や販売の意欲を削ぎ、生産縮小、商品の売り惜しみに繋がり、旧ソ連の失敗の繰り返しとなっている。それでもチャベス時代は原油高騰の恩恵を受けて、その収入で得た輸入品で補うことができた。だが、チャベスの後継指名を受けたマドゥロ氏は油価下落のアオリを食らいその手を封じられている。さらに、マドゥロ氏は国内外の反対を押し切って、国会の権限を取り上げ、司法権に加え立法権まで手に入れ独裁体制を確立している。反政府運動は一層先鋭化し、反政府デモと治安部隊の衝突で死傷者も続出している。

Newsweek日本版のネット記事によると、チャベス大統領時代に中国からのひも付きマネーが大量に流入し、7年間で630億ドルに達しているという。その返済は全て石油で行うという裏取引があったようで、今やベネズエラは契約当初の2倍の原油を中国に輸送する羽目になっている。米国がほとんど関わりを絶っている以上、中国の出方に注目が集まる。

Newsweek日本版の記事の執筆者であるクリストファー・バルディング(北京大学HSBCビジネススクール准教授)は次のように述べる。悠久のシルクロードのイメージでデコレーティングされてる「一帯一路」の欺瞞にはこれからも注目していきたい。

中国当局は一帯一路を語る際、第二次大戦後の欧州復興計画マーシャルプランをよく引き合いに出す。しかし一帯一路は「中国による中国のための計画」だ。低金利や無利子の開発援助と違い、金利は市場の相場に基づき高く設定される。しかも鉄道や港湾の建設事業を受注するのは中国企業で、資材も中国から輸入し、労働者も中国人だ。

そうであっても中国は高い代償を免れ得ない。既に中国当局は南アジアと中央アジアの国々への融資で多額の焦げ付きが出ると予想している。

スリランカがいい例だ。中国は20億ドルの借金棒引きを認めたが、その後にまたインフラ事業で320億ドルを投資した。大型インフラ事業で中国マネーが流入するパキスタンではインフレが起きるのは必至で、そうなれば債務返済はさらに困難になる。