『涼しい脳味噌』

養老孟司『涼しい脳味噌』(文春文庫 1995)をパラパラと読む。
東京大学医学部で解剖学の教授を務めていた頃に、あちこちの雑誌に寄せたエッセイをまとめたものである。小難しい医療や社会に関する問題を分かりやすい文体で、著者の頭の良さをひしひしと感じる。

東京芸大大学院で美術解剖学を研究し、執筆当時に著者のもとで助手を務めていた布施英利の著者批評が面白かった。養老氏が研究室のパソコンの前に座っているときは、たいていテレビゲームをしていたそうだ。しかもその根気が並大抵でなく、圧倒的な集中力と持続力でゲームに向かっていたとのこと。また、息子さんのスーパーマリオを連続18時間もやりこみ、親指の皮を剝いたというエピソードも紹介されている。

きっちりと読んだわけではないのだが、時折ハッとするような内容に目を奪われる。文章を真似するつもりで少々引用してみたい。

 クジラはほとんど聴覚しか使わない。この巨大な動物にとって、生きるためにはそれで十分だった。その脳はきわめて発達するものの、聴覚的な論理的思考しか受けつけない。だから、クジラは、論理的かつ倫理的に砂浜に乗り上げる。聴覚的に存在しないものは、クジラの世界には、あってはならないものだからである。クジラは長年、なにを恐れることもなく、そうして大海原を自由に泳ぎ廻ってきた。それはクジラの正義といってよいであろう。

あってはならないといわれるものは、この世にたくさんある。だが私は、それをいわれるたびに、クジラの自殺を思い出す。この世にあるものは、あるものである。あってはならないから撲滅するというのは、きわめて論理的だが、それは、時によってはクジラの自殺ではないのか。

私はユダヤ人を撲滅しようとしたヒットラーに、与するものではない。しかし、それをあまり悪党にされると一言いいたくなる。クジラがわれわれと同じ哺乳類であるように、ヒットラーもまた人間だった。われわれもまた、人間である。ともに人間である以上、ああいう人が、時と場合によって、また出てこないと、だれがいえるのか。クジラが集団自殺するように、かれに追従した人間は、大勢いる。次の機会にもまた、おそらく大勢いるであろう。それがヒトというものではないか。なぜなら、そのことは、すくなくとも一度、実際に証明されているからである。

だから私は、自分の中にも、いくばくかのクジラと、いくばくかのナチズムがありうるかと思っている。(1989年1月)

 

 ゴキブリが好かれないのは、だれのせいか。むろん、われわれのせいである。チンバンジーもゴキブリを嫌う。嫌い方を見ていると、人間そっくりである。ゴキブリが背中についているのではないか。そんな感じがしようものなら、大慌てで手で払おうとする。その仕草は、人間がやるのと、ほとんどまったく変わらない。こういう仕草を見ていると、人間のゴキブリ嫌いは先天的だという気がする。しかし、ゴキブリが嫌味なのは、ゴキブリのせいではない。それをゴキブリのせいにするところから、「差別」が生じる。ゴキブリがゴキブリであることが許せない。しかし、ゴキブリはゴキブリであるしかないではないか。

無茶を言うなと言われそうだが、差別とは、元来そういうものである。相手方にない性質を相手方のもともとの性質として「仮託する」。すべての差別は、そういうものであろう。嫌悪感だと、それがよくわかる。しかし、好意だって、論理的にはまったく同じである。それを贔屓という。その意味では、すべての贔屓は依怙贔屓である。恋愛をみても、それがよくわかる。

相手がゴキブリなりクワガタなら、社会問題は生じない。人間となると、大問題を生じる。この国の人は、倫理のかわりに「美的感覚」を導入するから、わりあい差別感を表明しがちである。自分ではそれに気がつかない。

「倫理」は行動の原則である。政治家の発言は、その影響から考えるなら、行動して捉えらえる。それなのに「感覚」のレベルから発言するので、政治家の差別発言が止まらないのであろう。

ゴキブリが嫌だからと言って、かならず殺していいというものでもない。「嫌」は感覚だが、「殺す」のは行動である。感覚が行動に直結するのは、進化的にもっとも下等な神経系である。

ゴキブリ殺しを平気で許容する社会には、それなりの問題が自然に発生するはずである。ゴキブリを殺すための道具が、大都会に一般に広がるのは、なぜだろうか。いまでは、ハエ取りリボンやハエ取り用の長い管は、まったく見かけなくなった。これはもちろんトイレが水洗になり、人糞肥料が使われなくなったからであろう。そうしたら、次はゴキブリ。まだゴキブリがいるだけよろしい。これがいなくなったら、その次はなにか。どうもその次あたりから、対象が人間になりそうな気がするのである。子供たちのイジメの話などを聞いていると、そこが不気味である。「虫ずが走る」生き物というものが、人間の感性にとって、どうしても存在せざるを得ないものであるなら、ゴキブリやクモやフナムシを、その対象として保存しておくべきであろう。その先まで、あまり進行させない方がよいように思う。これは理屈ではなく、感性の問題なのである。(1991年3月)

 

 

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